
孤独な街、ニューヨーク ニューヨーク中で最も乱暴で残忍な住人、それはブルックリンのベッドフォードスタイブサント地区の人々だという。1平方メートルあたりの殺人事件が、この地上で最も多い地域。一発銃声がしただけでは、誰も注意を払わない。街を歩くと窓からは、ヘロイン中毒者の引き裂くような金切り声が聞こえてくるが、それも誰も気にとめない。かつてそこはしっかりした中流階級の家族が住む、庭付きの3階建てのきれいな家々だった。今では黒人とプエルトリコ人が住むスラム街となっている。 この人口8百万の都市で少年たちがかかえている最大の問題、それは「孤独」であった。 そこにはさまざまな暴力団がある。社会的な暴力団、戦闘的な暴力団、同性愛の集団、女性の同性愛の集団、サディストの暴力団たち。子供達は放課後、空き家になったアパートに集まって、めちゃくちゃなことをしている。ある集まりでは猫から足をひきちぎる。完全に性的な集まりもある。さらに悪いことが、麻薬の常用だった。 ニューヨークだけで、3万人を越える麻薬常習者がいる。そのうち十代の若者は4000人もおり、そのパーセンテージは年々増加している。ヘロインはレバノンの首都ベイルートから密輸される。密売人たちは市内の中学校の校門のすぐそばで待機し、少年たちを車の中へひきずりこんで、まずマリファナを吸わせる。破壊された家庭出身の孤独な少年たちはこれで嫌な家族のことも忘れて年中幸福な気持ちになれることを学んでしまう。密売人は次に現れると、タダでヘロインを打たせてくれる。そこからが悲惨な人生の始まりなのだ。彼はヘロインの金を稼ぐために、新たな密売人となるのだ。 ヘロイン中毒の少年たちには望みはなかった。ニューヨークには麻薬中毒の少年を助けられる病院がたったひとつだけで、いつも満員だった。そこに入院できない場合、他に入れるのは、合衆国全体で別な公立病院がたったひとつあるだけなのだ。 けんかとセックスと麻薬。しかしこれらは彼らの心深くにある「孤独」の外的な象徴にすぎなかった。人生の意義に対する渇望。この少年たちの視点は哀れなくらい低かった。あるひとりの少年の人生の望みは、帽子を手に入れることであった。またある少年の人生の望みは、ブルックリン橋を越えてマンハッタンへいくことだった。(なわばりを越えて別の暴力団に出くわすことは、恐怖なのである) 世の中に貧困や病気や孤独があるから、神はいないという人がいる。果たしてこの少年たちは神から見捨てられているのだろうか?それとも、神の愛を伝える媒介となる人間が不足しているのだろうか。・・・ここにひとつの業が起こされた。 ディビッド・ウィルカーソンについて もとペンシルバニア州、フィリップスバーグ市の、山の小さな町の牧師。 1958年2月、ふと思うところあって家のテレビを売り飛ばし、夜の2時間を祈りに費やす決心をしたのをきっかけに、人生が大きく変わる。 ある日雑誌でニューヨークの少年犯罪の裁判記事を見ているとき、「ニューヨークへ行って、あの少年たちを助けなさい」という心の声を聞く。何度打ち消しても消えないその声に駆り立てられ、こうした青少年犯罪や暴力団を扱った経験もないままに、ニューヨークでも最低の貧民街におりたつ。暴力集団。麻薬常用者。十代の駆け落ちと売春婦たち。・・・最も手に負えない全く望みのない子供たちが当然のように生まれている街。その街角に立ってトランペットとともに神の愛を語り出す田舎牧師。乱暴なやじ。誰も聞いていない。警察が介入してきて面倒を起こすな、帰ってくれと言う。・・・ところが絶望して牧師が祈る間に、奇跡とも言える変化が起こった・・・。その後も続く数奇な出来事の数々。神のメッセージが、底辺にいる子供達の心をとらえていった。 ウィルカーソンはニューヨークでティーンチャレンジ・センターを開き、神の愛を伝え、何百人という少年少女たちがセンターを通じて新しい仕事、新しい前途へと向った。現在はシカゴでティーンチャレンジ・センターを設立、活動中。 ウィルカーソンはアメリカで伝説的な存在となり、政府の調査では、麻薬中毒患者の社会復帰への働きの成果が一般では1〜10%しかないのに対し、ウィルカーソンのティーンチャレンジ・センターでは89%の成果を収めていることがわかっている。ウィルカーソンの働きは何万人もの人々に大きな影響を与え、今日のアメリカで高く評価されている。 |
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これらは、ウィルカーソンの頭の中の思想というよりも、彼が神に命じられたことを行う中で、学ばされていった事柄というべきものです。 福音の中心は「回心」 ニューヨークのスラム街に住む少年たちに牧師が語るメッセージは、難しい教義ではなく、ごくごく単純な力強いものでした。それは「誰であっても、キリストにあって、新しく人生を始めることができる」というものです。イエスのメッセージも、その中心はごく単純で、常に、悔い改めて、福音を信じ、新しく生まれ変わりなさいということでした。 2000年前、イエスのメッセージがしみ通っていったのが、取税人や売春婦などのいわゆる「罪人」たちであったように、「あなたは新しい人生を始めることができる」というこの福音は、ニューヨークの悲惨な生活をしている少年少女たちの心を捉え、大きな希望を与えました。 キリストのメッセージが本当に届くのはいつの時代も、自分の弱さを自覚し、新しく生まれ変わりたいと願っている人々なのです。 聖霊の働きにまかせよ ウィルカーソンの働きを見ていると、ひとつの法則が浮かび上がってきます。 何もかもがはじめからうまくいったわけではなく、牧師はまったく虚しい、砂を噛むような経験もしました。いつも何か奇跡が起こるのは、彼がまったく絶望して、「主よ、助けて下さい」と祈った後だったのです。神は、自分の力や健康に頼るのをやめたとき、すなわち自分を虚しくして神に明け渡したときに、最も劇的に働かれたのでした。 ある広い集会場を借りて連日伝道集会をしたときも、ほとんど少年たちが集まらず、集まってもからかいに来ている者ばかりで、毎日が惨憺たる結果でした。しかしある少年から、「あんたは、あんまり無理しすぎているよ」と言われたとき、ひとつのことを悟ったのです。それは、 「権力によらず、能力によらず、私の霊によって」という聖書の言葉でした。ウィルカーソンが一生懸命、自分を全面に出せば出すほど、聖霊の力は遠ざかり、彼の言葉は子供達には届きませんでした。しかし、彼がわきにどいて、聖霊の働きを紹介することに徹したとき、神は働かれました。最終日は集会場はぎっしり詰まり、騒ぎを起こす目的で集まっていた子供達の心は、劇的に変えられていったのです。ニューヨークの二大勢力であった暴力団ふたつが、解体してしまいました。団長たちがクリスチャンとして再出発し、もう争い事を好まなくなったからです。 「われわれ人間は、お互いのために一生懸命働くことができる。そして、われわれはそうすべきだし、そうしなければならない。しかし、いやされる方は、神しかおられない。」 麻薬中毒者の社会復帰は難しく、何人もの子供達がせっかく悪習から抜け出してもまた元の道に戻っていきました。しかし中毒から抜け出した者とそうでない者を分ける決定的な違いに、牧師は気づくようになりました。それは、聖霊を受けた者と受けない者なのです。 聖霊を受け、異言(この世のものではない言葉)を語りだした少年少女たちは、麻薬から完全に立ち直り、ふたたび戻っていくことはありませんでした。例え戻ったとしても、麻薬を打ってももう以前のような効き目を感じないのでした。それは聖書に、聖霊を受けた者は「毒を飲んでも害を受けず」と書いてある言葉そのままでした。 両親や伝道師たちは、子供達に愛を伝えることはできるし、正しい道を伝えることができます。また、慈善事業家たちがするように、彼らによい衣服と住む場所を与えてあげることもできます。しかし、人間が本当に生まれ変わることができるのは、神のみによるのだと牧師は学んでいくのです。 |
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ウィルカーソン牧師の働きによって、というより、正確には彼を通した神の働きによって、多くの少年少女たちが悪習から立ち直って新しい人生を歩み始めました。それらは人々に非常に希望を与えるものなので、長くなりますがいくつか紹介します。 1)ジョジョ リトル・ジョジョは、ニューヨークでも最大の暴力団、コニー島ドラゴン組の組長だった。ウィルカーソンは単身この少年のところに行って、手を差し出した。ジョジョが最初にとった行動は、その手を払いのけて、牧師の靴に唾を吐きかけることだった。これは最高の軽蔑のしるしであった。 ジョジョは10人兄弟がいて、食べ物がなかったので家からおっぽり出された浮浪者だった。「お金持ちさんよ、あんたはいい靴をはいて、よく似合う洋服を着ているもんな」牧師は、自分の靴を与え、人々に嘲笑されながら靴下のままで道を歩いていった。ジョジョは後から追っていき、「あんたと握手するのを忘れていたよ」といった。牧師はジョジョと一緒に住み、衣服を買ってあげたが、それはどこかの慈善団体がしていることと変わりなかった。彼の心は以前のままだったのだ。それが変化するには、牧師自身がすべてを神にゆだねなければならなかった。 ジョジョは、言った。「もし神様がいて、おれが神様に祈れば、祈りを聞いてくれるのかなあ。それは本当かい」「絶対に確かだよ」「よし、あんたのとこに子供が生まれるってな。欲しいのは男の子かい、女の子かい?」 牧師はわなにかけられたことを悟った。祈りはそういうものではないと説明しかけたがジョジョは聞かない。牧師はすでにふたりの女の子がいたので、男の子が欲しいと認めた。ジョジョはそれを聞くと、生まれて初めての祈りをささげた。「さあ、神様。もしあなたが天におられ、そして、もしおれを愛してくださるなら、この伝道者に男の子を授けてください」 それは本物の祈りだった。祈り終えたとき、彼は涙をこらえようと懸命に目をしばたたいていた。牧師は、部屋へ駆け込むと、これまでにないほど真剣に祈りはじめたのだった。 妻から男の子が産まれたという電話があった。もちろんこれは祈りの答えというよりは、五分五分の確率の出来事である。しかし数字では割り切れない何かがその夜には働いていた。ジョジョは知らせを聞いたとき、頭をかいた。「え、何だって、そういうことなのか。やっぱり神様はいるんだな」 夜が明ける前に、ジョジョはすっかり変えられた少年になっていた。それは涙と共に始まった。泣いて苦痛を吐き出し、泣いて憎悪を吐き出した。そして泣いて疑惑と恐怖を吐き出した。彼がすっかり悔い改めたとき、神の愛を永久に自分のものとしたのであった。 2)ニッキー ニッキーは、ニューヨークで最も戦闘的な暴力団、マウマウ団の副団長で、牧師が出会った中で最もすごい顔つきの少年だった。ニッキーの両親は心霊術者で、死者と話をするという商売をしていた。一部屋だけの家はいつもお客でいっぱいだったので、兄弟達と通りでごろごろしていた。末っ子で、家ではいないも同然だった。けんかのやり方を覚えると、通りでは顔が知られるようになった。 ニッキーは、小さな子供達や老人や障害者など弱い人や傷ついた人を見ると、いつも憎しみを覚え、殺意を感じ、けとばしたり殴ったりした。彼の心にあるそうした気違いじみたものは、ますます悪化していった。彼はいつもびくびくしていたのに、その心は笑い続け、特に血を見ると笑いが止まらないのだった。 彼はマウマウ団の仲間に入り、団長になってくれと言われたが、けんかがしたかったので副団長になった。野球のバットでだれかれかまわず打ちまくり、ナイフで殺さずにたくさん刺す方法も覚えた。ある日他の暴力団員に首をしめられてから、言葉が正確に話せないという障害を負うようになった。これまで障害者に憎悪を抱いていたのが自分のことになったので、気持ちを静めるためにはしょっちゅう殴り合いをしていなければならなかった。 ある時殺害事件に関わって両親は世間体を気にして子供を残してプエルトリコに帰ってしまった。それからはニッキーはピストルで人をおどして金を巻き上げて生活するようになった。 昼は暴力団仲間と一緒にいたからよかったが、夜になると、彼は恐ろしくてたまらず、夜中に目覚めては母親が恋しくて泣き叫んだ。母親は何も言わずに彼を捨てていったのだ。 そんな生活の中で、彼は牧師に出会った。「私は君を愛しているよ」と言った人は、それまで彼の人生でひとりもいなかった。彼はどうしていいかわからず、「殺してやるぞ!」と叫んだ。 ニッキーは伝道集会をめちゃくちゃにするため、集会所に行った。寄付金を集めるときになって、彼はその役に立候補した。牧師を笑い者にするチャンスがめぐってきたのだ。ニッキーはお金を集めたらそれを持ったまま裏から逃げ出す計画だった。部下達はニッキーの合図を待っていた。牧師は祈っている。しかしニッキーは突然変な気持ちになった。それは牧師が彼を信用してくれたことに気づいたからだった。そんなことは彼の人生にはこれまでなかったことだった。 ニッキーは、金を持ったままステージにあがり、そのまま牧師に渡した。それから、「神はこれまで何をしてきたかは全く関係なしに、人々を新しく出発させることができる」というメッセージが彼の心に食い込んできた。ニッキーは突然それが欲しくてたまらなくなり、前に出ていってひざまずき、人生最初の祈りをしたのだった。「神様。ぼくはニューヨークで一番きたない罪人です。あなたがぼくをお望みになるとは思いません。もし、ぼくを望まれるなら、あなたは手に入れることができます。以前、ぼくはなんと悪いやつだったことでしょう。そのぼくを、イエス様のために善にしてもらいたいのです」 牧師から聖書をもらい、部屋に帰ってドアをしめたとき、ニッキーは全然いつもの恐怖を感じなかった。まるで母が戻ってきたような感じだった。彼はポケットからマリファナのたばこを出し、引き裂くと窓から投げ捨ててしまった。 翌日、彼が通りへ出ると、不思議なことが起こった。いつも小さな子供達はニッキーを見ると逃げ出したのだが、その日は子供達が寄ってきたのである。小さな子供達には、ニッキーが変えられた人間になったことがわかったのだった。もう血を見ても、狂気に向かうことはなくなっていた。 ニッキーはやがて、伝道者になって同じ様な境遇の多くの少年少女たちを助けた。伝道者になるために神学校へ行き、また声がちゃんと出るための治療をさせようと、牧師はニッキーに聴衆の前で体験談を話す機会を作った。話している間、彼の障害のあった話し方は徐々に変わって、まったく正常な話し方になった。それに気づいた彼は、それ以上話すことができず、ただ講壇の上で、震えながら立っていた。涙が彼の頬をつたっていた。 3)マリア マリアはGGI(Grand Gangsters Incorporated:大暴力集団)の少女暴力団の団長で、300人以上の少女を従えていた。マリアはヘロイン中毒者だった。しかも静脈注射常用者だった。血管に直接ヘロインを注射する者にはほとんど望みはないとされていた。 伝道集会で、彼女も前に進み出て悪習慣を断とうとした。それから結婚し、暴力団と縁を切り、夫は働いており、3人の子供ができた。 しかしある日、マリアは夫と喧嘩をし、ふたたびヘロインの密売人を見つけて、注射を始めた。しばらくして現れたマリアの目はガラスのようにうつろで、鼻水をたらし、髪の毛はもつれてぼさぼさで、こぶしを握ったり開いたりしていた。それから何年もヘロインを打っていた。牧師たちは、彼女のために祈るしかなかった。 ある日マリアから電話がかかってきた。彼女は教会に行き、そこで聖霊を受けたと言ったのだ。彼女の心に暖かいものが流れ、変化が起きた。 その後マリアは昔の仲間に出会った。麻薬のための金を貸すことを断ると、仲間たちはマリアに殴りかかり、ナイフで刺した。しかし彼女はその間ずっと祈っていた。彼女は聖霊が共にいることを感じていた。そして以前のように、怒りからまた麻薬に戻っていくことはなかった。 マリアは教会の奉仕者となるため、プエルトリコのスペイン語訓練校に行くことにし、一家で引っ越していった。3人の子供達は、今は母親が本当に信頼できることを感じはじめ、安心してマリアにまとわりついていた。 4)ラルフ ラルフはマリファナを2年間吸い、ヘロインを4年間打っていた少年だった。何度も麻薬をやめようと、また暴力団から遠ざかろうとしたが、そのたびに失敗した。残された道はただひとつ、麻薬ほしさに誰かの命を奪う前に、自分自身を抹殺しなければならない。 彼は自殺しようと、屋根によじのぼった。そのとき、彼の耳に教会の歌声が聞こえてきたのだった。 ラルフは屋根から降り、麻薬や暴力団に拘束されている人間を神が助けられると書いてある貼り紙を見た。ラルフは中に入っていき、自分の生涯をキリストにゆだね、聖霊を受けたのである。 それから一年以上もヘロインをやめていた。しかし、引っ越して元の仲間のところに戻ると、みんなにヘロインをやめたことでからかわれた。それで再び誘惑にかられ、自分の部屋でまた注射を打った。しかし今度は不思議なことが起きた。以前のように注射が効かなかったのである。全然何もなかったみたいで、突然、近くの教会に走っていって、祈りたいという強い衝動にかられた。そうして祈ると、以前と違って、自分に嫌気がささなかった。そして誘惑が消し飛んでしまった。彼は目を輝かせていった。 「ぼくが何を考えたかわかりますか。わなにかけられたな。でも、今度はヘロインにではない。ぼくは、神の御霊のわなにかけられたなと思ったんです。御霊はぼくの中におられ、ぼくを手放さないんです」 もちろん、センターでは麻薬中毒者の魔術的な治療を主張することはない。しかし言えるのは、麻薬よりももっと力強く少年を捕らえる力を、彼らは見いだしたということなのである。その力は聖霊であり、それは麻薬の力と違い、少年たちを解放するのである。 |
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『十字架ととびだしナイフ』(ディビッド・ウィルカーソン著/ジョン&エリザベス・シェリル編/生ける水の川出版/1400円) 上記のことを記録した本。何の経験も計画もなく、ただ「声」に駆り立てられ、祈りながら進む田舎牧師に、次々と数奇な出来事が起こり、貧民街の少年少女に神の愛を伝える、という無謀で危険な試みが進展してゆく。暴力団の団長たちも含め、憎悪と敵意に満ちた少年少女たちが生まれて初めて愛に触れ、回心してゆくさまは非常に感動的。さらにティーンチャレンジ・センターの建設にあたっては、お金もなんの当てもないところから出発し、マリア福音姉妹会の会堂「カナン」の建設とまったく同じような経緯で、祈りによってすべてが備えられてゆくが、その経緯も書かれている。 この本とこの本をもとにした映画(主演パット・ブーン)は双方ともミリオン・セラーになっている。 「都会の暴力団のぞっとするような実態を目のあたりにしながら、彼らがすぐそばにいるかのように、あなたはその孤独で傷だらけな世界へと誘い込まれるに違いない。現代においても、神が平凡な人を用いて非凡な働きをされることに対して、あなたは驚くに違いない。」(前書きより・・・もとゴダイゴのメンバーだった外人、スティーブが書いてる、笑) |
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私は、こうした「回心」の話が大好きです。人間は、例えどんな人間であっても、過去にどんなことをした人であっても、そんなことには関係なく、神によって全く新しく生まれ変わることができるという、勇気と希望を与えてくれるからです。 私自身が信仰に入ったきっかけを振り返ってみても、やはり「回心」が中心でした。 パンプキンは非常に育ちが悪く(笑)、男ばかりの乱暴な環境で育ったので言葉遣いも日頃から「ざけんじゃねえ、てめえ」てな感じで、喧嘩っぱやく、その喧嘩も殴る蹴るの乱暴なものでした。(^_^;母親が早死にしたので親戚との共同生活を経て、中学入学後は家事全般をまかされていたのですが、男どもはご飯を作る立場のことなどわからず、「こんなもん食えるかっ」「おえっ」(わざと吐き出す)などと結束して文句や嫌がらせばかりして、私は家庭でひとり孤立していました。家出も何度かしたけど家事をする人間がいなくなると困るからというんですぐに連れ戻されました。 母親の影響で小さい頃から教会に通っていたのですが、教会では、「とんでもない家族だ。家族が悪いんであってあなたは悪くない、可哀想に」とは言ってくれませんでした。その教えはいつも、「あなたが変わりなさい。あなたが変われば、家族も変わる」と教えていました。自分が不幸なのは、家族など環境のせいではなく、自分自身の心にある怒りや憎しみなどの自己愛なのだということを繰り返し教えられました。そしてそれは、本当のことでした。すべての不幸の原因は、外にあるのではなく、内にある。これは、私自身の世界観の基本となっています。そしてそこからの解放を祈り求めれば、どんなに醜悪な人間でも、変わることができ、自由と幸福を得られると教えられたのです。 キリスト教の本質は、この回心と祈りにあるような気がします。私自身、少しずつ変わって今ではあの頃の自分が別の生き物のように思えるようにもなりました。いつの間にか家族とも和解しあい、愛情を持つようになりました。家族も変わって、私にやさしくなりました。体裁のために無理して抑えつけるのではなく、自然にそうなっていったのです。母親がいないことや誰にも愛されない、理解されないという心の寂しさは満たされてゆき、いくつかの悪い習慣もなくなってきて、私は自分が幸せだと感じるようになっていきました。 私の信仰の出発点はそういうことなのですが、信仰はこの回心が中心であることを、ともすれば忘れそうになります。回心が伴わない宗教は、変なエリート意識があったり、他の人の考えが間違っていると批判したり、他の宗教との違いばかりを浮き彫りにしてきます。これは私もよく陥りがちなことです。回心のない信仰は、傲慢で、非常にたちの悪いものになってしまうのです。 私たちが悪い生活をやめて新しい生活を始めること。そのために祈り、力が与えられ、実際に変わることができれば、懐疑的な人々が何を言おうと、それは神がおられることの圧倒的な証明であり、それ以上何も言うことはないし、疑う人々を説得する必要はないのです。 この本に出てくる、生まれ変わった少年少女たちの数々の話は、読むたびに力を与えてくれ、祈りの大切さを教えてくれます。やはり、祈る人には豊かに精神的な恵みがあり、祈らない人にはなんにも起こらない。また、TVを売り払った牧師のように、この地上に祈る人が出現しなければ、神はその人を動かしてご自分の業をすすめることはできなかったでしょう。 「『お金はどこにあるんですか。帳簿は。それに、その責任をとる人は。』聖霊様こそ責任者である。主が責任をとってくださる限り、その計画は栄える。しかし、私たちが、自分自身の力にたよって事をなそうと試みるときには、たちどころに失敗するのである。」 |
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