キリスト教に関心のある方に、メールで「どのようにして
クリスチャンになったのですか?」と尋ねられることがあります。
そこでいつか、そのことを書いてみようと思っていました。
長文ですが(^^;興味がある方はご覧ください。

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私は母親がクリスチャンで、小さい頃から教会に通っていました。が、信仰が本当に自分に関係あることとして 考え始めたのは、中学生になってからです。 ◆殺伐とした家庭 私の育った家庭は愛情深い母親とあまり家にいなくて影の薄い父親という、日本
にありがちな普通の家庭でしたが、小学生のとき母親が亡くなってからは、殺伐とした家庭になりました。 中学に入学してからは家事一切が私に任されることになりました。が、当時の私は 不満がいっぱいでした。あとの家族はおばあちゃんと兄と父だったのですが、おばあちゃんは病弱でできない から仕方がないとして、兄は男だというだけの理由で家事を免除されたのが、どうも納得いきませんでした。 しかも男の人たちというのはご飯を作る側の苦労というのはわからないもので、なにかというと「こんなもん 食えるか」とか文句ばかりいいます。わざと吐き出されたこともあります。明日から期末テストでも、兄がゴロ ゴロテレビを見ながら「あーお前じゃなくてよかった」なんて言うのをきくと、むかむかしました。そして短気な 私はそのたびにキレて爆発し、愁嘆場になりました。 ひとたび爆発すると、私の怒りはどこまでもエスカレートして 歯止めがきかなくなり、包丁を持ち出したこともあるし、カセットデッキで殴りあったこともありました。(^^; そしてできる限り一撃で相手を傷つける効果のある刺のある言葉を探しては投げつけあいました。 そして、こんなむかむかする憎い家族のために毎日ご飯を作らなければならないのが、屈辱的だと思って いました。ひとことで言えば、私はとっても不幸だったのです。 ◆教会に通い続ける すでに小学校のときクリスチャンとして洗礼を受けていたにもかかわらず、 また、イエスさまや聖書のお話を信じていたにもかかわらず、それはまったくクリスチャンとは 縁もゆかりもない生活であり、自分の姿でした。それでも、相変わらず教会には通っていました。同年代の日曜学校の 友達は部活動などで忙しくなり、教会から離れていく子が多くなりましたが、私が教会にとどまって いたのは、ひとえに苦しかったからだと思います。そしてその苦しさゆえか、不思議とこの 時期から、教会の説教の言葉が心の中に入ってくるようになりました。
◆教会で教わったこと 教会の説教は、いつも「悔い改めなさい」という教えが中心でした。 そして どんなに心の汚い人間でも、どんな生活をしている 人間でも、新しく生まれ変わり、新しい生活を始めることができる ということを教えていました。人にはできなくても、神様は、人間の心を変えることができるというのです。 それは、当時の私にとってはもっと心のきれいな女の子になるための、唯一の希望でした。
人間の改革は2段階に進められることを、教会で学びました。
第二段階は、心の改革です。人は穏やかな人になりたい、もっと家族にやさしくなりたいと頭で考えた
だけでは、変わるものではありません。やはり嫌なことをされるとむかむかし、愛情どころか
憎しみしか起こらない自分をそこに見るのです。それは人間は理解しただけで変わる
ものではないし、心は自分の力だけで変えることができるものではないからだということを
教わりました。そのこと自体は、日々の生活で自分でもよ〜くわかっていました。
「わかっちゃいるけど、やめられない」のが人間なのです。 当時の私としては、実行してみるしかありませんでした。 ◆変化が起こる 喧嘩の最中は祈るどころではありませんでしたが、そのあとで、
悔い改めをするようになりました。最初の悔い改めは、困難を極めました。
怒りにはらわたが煮えくりかえるような思いの中で、どうにかこうにか「許すことができますように」
と祈りました。その後では、しばらくすると不思議に落ち着いた、安らかな気持ちになれました。 やがて父が失業したり、親戚の借金をかぶって家や家財道具などが取られたりと、
経済的な困難がありましたが、私はそれらのことをあたかも第三者に起こったかのように
心配することなく乗り越えることができました。新しい家を探すとき、屋根も天井もボロボロ
で、たたみが斜めに沈んでいるような家を見せられて「ここに引っ越す」といわれたときも、
心は暗くなることなく、「我らの国籍は天にあり」という気分で明るく引越しやなんかを乗り越える
ことができました。(結局、知人の紹介でもっとましなボロ屋に住むことができましたが)
父親も近所の人も、そんな私を見て、私がすごく変わったと言うよう
になりました。私自身も、特に環境的には変わったわけでもないのに、もう以前のようなみじめな
気持ちではなく、心が満たされるようになり、自分が幸福だと感じるようになってきました。 ★どんな人間でも変わることが できるということについては、ディヴィッド・ウィルカーソンを参照 |
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私が現在の宗教と宗派を選んだのは、 生まれ育った教会がたまたまそうだったからには違いないのですが、そう言ってしまうとミもフタもなく(笑)、これから教会に通ってみようかと思っている人には何の参考にもなりませんので、少し私のもとになる考えを書いてみます。 ◆イエスさまはどうして神なのかこれから聖書やキリスト教について学ぼうとされる方の中には、確かに愛に生きなさい、という教えはいことだし、 神様もきっといるだろうと思うけれど、それでもその神さまが「イエス」という歴史上の人物に限定されることが どうもしっくりこない、という人がいるかもしれません。 振り返ってみるに、私にとって宗教選びというものは、出発点としては ある宗教に入ると、どんな人間になれるのか、また自分はどんな人間になりたいのか(どう生きたい のか)ということが大事だと思います。ある人は、超能力を得て自分の才能を完全に 開花させ、人々をあっと驚かせたいと願うかもしれません。ある人は、死後の世界について、完全な知識を持ち、 それを所有したいと願うかもしれません。私の場合は、もっとまともな人間になりたいということでした。言い換えれば 家族や他の人を愛せる人間になりたいということです。そしてそれは、たぶん、よい宗教に出会うことを可能にする まともな願いでした。そういう願いを持つことができたのは、母親が死んだり、家事を任されたり、家族に優しくされなかったりという一連の 状況があったからこそで、今思えばそれらはすべて私が神さまのみもとに行くために備えてくださった、神さまの 恵みに思われます。 ある宗教に入れば自分がどんな人間になれるのか、それを知るには、自分が祈る 対象の神さまがどんな神さまで、またどんな生きかたを説いているのかというのは大事なポイントです。例えば、 人間のいわば親分である神さまがギリシャ神話の神さまのように、怒りっぽく、飽きっぽく、残酷で、自己中心的 で、たいして愛もなかったりしたら、その神さまに祈る人間も、その神さま以上に優しくなれたり、平和に 暮らせるようになる見込みはありません。 キリスト教では、「わたしを見たのは、父を見たのです」と聖書にある通り、イエスさまの 人柄を見れば、神様がどんな方であるかがわかるのというのです。目に見えない、人間の理解を超えた神様という 無限の存在が、人間にも理解できるような形で具現化したのが、イエスさまだからです。 小さい頃から教会に通っていた私が言うのもなんですが、聖書はとっつきにくい書物です。旧約聖書なんて、 スウェーデンボルグの神学がない限り、神さまが罪を犯した人を残酷に滅ぼす話、また偶像崇拝をのぞけば 特に罪もない(と思われる)他民族を攻め滅ぼす話ばかりでとても読めたものじゃありません。また、愛の教え に満ちた新約聖書でさえ、 当時は古いタイプの翻訳の聖書を使っていましたから、イエスさまは「〜だが、〜である。」とか「〜せよ。」などと いう厳格な口調で(笑)子供心に優しそうには思えなかませんでした。それになんだかいつも悪いヤツに抵抗しないで やられっぱなしだから、やられたらやりかえしていた気の短い自分には軟弱な男の人のように思えました。 聖書を読んだだけで「イエスってすごい」と思える人は、よほどの読書力のある人だと
思います。少なくとも牧師さんの説教などの導きがないと、一人で読みこなせるものではありません。私はそうでした。
私がイエスさまという人格に出会うことができたのは、マリア・ワルトルタさんの著作に
出あってからです。聖書だけではわかりにくい人には本当におすすめの本です。 たとえば、イエスという人は、相手の外側ではなく、 心だけを見ます。これだけでも、この世では稀に見る人物です。学問がなくても、売春婦とか取税人とか泥棒 とかの怪しい職業でも、触るとうつる怖い病気もちでも、性格が悪くても、なんの能力もないつまらない者でも、 それによって私たちのように心の中でひそかに軽蔑したり、ランク付けしたりしません。ひとりの人間として 平等に見てくれるのです。また女性に対しても、外見が美しいとか、 ナイスバディだとか(笑)、若いかどうかとか、そんなことも超越して相手の心だけを見ます。そういう風に女性を みることのできる20代の男性が、いるでしょうか。(笑)ともすれば女性ですら、女性同士外見だけでランク付けします。 顔に傷がつけば、醜くなれば、病気になれば、年をとってしわが寄れば、 多くの男性にとって女性は価値が下がるものですが、イエスさまは、そんなことはまったく気にしないのです。むしろ それに傷ついている心だけを見てくれます。それは男女の愛を超えた愛、親としての、神としての愛です。 一言で言えば、これらの本を読んだ私の結論としては、イエスさまこそ 人間のなかの人間、いわば究極の人間なのです。人を騙そうとか誉められようとか自分を売り込もうとか いう思いがこれっぽっちもない。ただ、人々の傷ついた心が神に向かうことだけを喜び、神の御心を行うことだけを 糧としている。こういう人をこそ、人は信頼できるのだし、イエスさまこそ人々が目指すべき人間像の原型なのです。 そして 当時の人々も、お弟子さんたちも、ただその人柄やにじみ出る品位に圧倒され、惹き付けられて、この人こそ 神だと直感し、職業も地位も家も投げ打って後についていったと思うのです。 だから、 神さま がこんな方であり、私達人間もそれに倣うべきだというキリスト教を、 私は受け入れたのでした。イエスさまを神さまとして受け入れている理由を 理屈で言えばそんな感じです。 ◆ どうしてスウェーデンボルグ派を選んだのか
ご存知のように、キリスト教には大小さまざまな教派があり、何をもってしてクリスチャンの基本とするか
の考え方は、教派によって少しずつ違います。私の場合、それは上に書いたように出発点が「まともな人間
になりたい」だったので、これは「愛があるかどうか」「愛の人になることを求めて祈っているかどうか」という
ことです。 そこで、私には個々の信徒が愛の人になることを目指して熱心に悔い改め、祈り求めているような教会 及び神学が合っていたのだと思います。洗礼を受ければOKというわけではなく、イエスさまの人柄を 目指す信仰の歩みは生涯に渡って続くのです。 そこからまた、教会ごとに、重視し、よく開く聖書の個所も違ってきます。 私の教会は、新約聖書の中の四福音書(マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネ)を重視します。それは 神であるイエスさまの言葉が直接載っており、私たちがいかに生きるべきかを明確に示しているからです。 使徒行伝はあまり読まないのも特徴です。しかし使徒行伝も、イエスさまの教えと違っていることを 教えているわけではないと思います。 パウロが語った「人は律法によらず、信仰のみによって救われる」の 「律法」はモーセの時代の細々した、愛に欠けたうわべだけのいろいろな規則のことを指しており、 イエスさまの説いた愛の生き方のことではないことは、明らかです。パウロの時代は、律法といえば 旧約聖書の(なぜなら新約聖書はまだできていなかった)モーセ五書などに書かれた気の遠くなるほどの たくさんのきまりのことを指していたからです。だから パウロは別の個所で、一番大事なのは「愛」 だと強調しています。「たとい、私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる 知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰をもっていても、愛がないなら、何の値打ちも ありません。」「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」私たち人間は弱いので、愛に欠けた自分の姿を見ます。しかし「人間は弱い」 ということに甘んじてそこに いつまでもとどまる必要はなく(それは実際不幸なことに違いないから) 、そこから救ってくださるがために救い主イエスさまがいることに、目を向けるべきと思います。 それを可能にするのがイエスさまへの信仰であり、救いとは実際に心が変わることだと思います。こういうことすべてについて、私自身の体験とあわせて、私が一番納得し、 合っていると思われた神学が、スウェーデンボルグ神学だったので、そのような教派の中に いるのでした。 ◆キリスト教だけが正しいのか、またスウェーデンボルグ派だけが正しいのか宗教の勧める生き方は、どれもいいことを言っていると思うし、神さまというのもたぶんいると思う。でも 地上に数ある宗教、宗派のうち、ひとつだけが正しいとして残りの可能性を否定し、自分の身を預けるというのが 理解し難い、という人がいるかもしれません。
私も真理というものは存在すると思うし、存在するならそれはひとつだと思います。が、その真理というものは
常に神の側にあるものだと思います。神さまが完全な真理をもっていても、それが啓示され、把握する人間は完全ではありえないのです。
人間が受け入れられるレベルに、真理もそれぞれたわめられていると思うからです。(人間が受け入れられ
ないようなものなら、いくら神さまが与えても意味がありませんし)
それが地上にさまざまな宗教・宗派がある理由だと思います。 私が現在の宗教と教派を選んだのは、 それが疑いなく 絶対的な真理だと納得できたからではなく、私の目指したいものに合っていた からなのです。この教えは私を罪の状態から自由にしてくれました。この歩み方に効果があることは自分の中では証明されたのです。そうで あれば、何も世の中の宗教全部を学んでみたり、試してみたりして、どれが正しくてどれが間違っているかを客観的に 決定する必要はありません。きっとどれにも神の啓示は含まれているのだろうと思いますが、あとは実際にそれぞれの 宗教に従って歩むかどうか だけです。あとは個々の信徒が祈りによって、神から少しずつ「その人にとって必要な真理」を開示 してもらえばいいのだと思います。
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人はどのようにして、醜い心
から愛の心へと変えられることができるでしょうか。私たちは愛の人になるために、実践すべきことがあると
いうのです。それは祈りです。祈れば実際に自分の心、生活を変えることができるし、
祈らなければ何も変わらないというのです。私自身が教会で教わって実践してみた、変わるための具体的な
方法を紹介します。 ◆朝晩の祈り 朝晩、1時間ずつ祈るように教えられました。1時間というのは目安ですが、5分でも10分でも
しないよりはした方がいいものの、祈れば祈っただけ、恵みがきて、それだけ神さまから力を与えられることはいうまでも
ありません。
●朝の祈りの内容(一例。厳密にこの通りをしなければならないというわけではありません) ●夜の祈りのメニュー(例) ◆日中の祈り
できるだけ、気付いたときに、「絶えざる祈り」をし、心を神に向けるようにする。できれば、心がかき乱された
ときに、ひとりになれる場所を見つけ、神さまの前に静まるようにする。
教会のための奉仕や、伝道や、信仰の出版物や啓蒙のための
書き物に時間を費やす人は多いけれど、
祈りに時間を費やすことができない人が多いといわれます。しかしイエスさまはマルタにこう言われました。
「マルタよ、マルタ、あなたはしなくてもよいことで思い煩っています。本当に大切なことは多くありません、
いやひとつです。マリアはそのよい方を選んだのです」 |
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