無名の巡礼者(ロシア)

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聖なるロシアと巡礼

著書「無名の巡礼者」について

「無名の巡礼者」から学べること

パンプキンの感想

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聖なるロシアと巡礼

今から100年以上前、革命が起こる前のロシア人は、非常に信心深く、信心に熱心な民族でした。この民は、言葉では言い表せぬほど深く、信仰に愛着しています。かれらはその信仰を実践するために、いろいろの方法を用いてきました。

その方法のひとつが「巡礼生活」で、巡礼は昔からロシアで実に盛んに行われてきました。昔のロシアでは、巡礼として生活していた人はおびただしい数にのぼり、まさにひとつの階級をつくるくらいになっていたほどです。トルストイやドストエフスキーそのほかロシアの大文豪の作品にも、こういう巡礼たちについて深い関心を寄せているところがみられます。

彼らは来世における永遠の生命の世界を自分の真の故郷とし、この世における他国をさすらう旅人と考え、定住の安楽さや家の快適さを捨てて、その旅に伴う無数の不自由や艱難辛苦に堪え忍びながら、熱心に祈り、霊的読書や修行をし、至るところの教会、修道院、有名な巡礼地を訪問するのです。

(ソビエトになってからは、共産党の弾圧により、聖職者たちが追放、処刑され、教会が次々に閉鎖され、世界でも最も無神論的な国になってしまいました。特に都会に住む人々の間に無神論が広がっているそうです。一方、信仰を固く守って微動だにしない人々も、少数ながら残っていて、それは社会でもっとも低い階級に属する人々、貧乏人、労働者、老人などだそうです。東西の壁崩壊後の現在、ロシア人たちの信仰はどうなっているのでしょうか。

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著書「無名の巡礼者」について

『無名の巡礼者〜あるロシア人巡礼の手記』

(ローテル訳・エンデルレ書店・昭和42年5月初版発行、昭和63年大10版発行(パンプキンのはこの版です)・本体990円)

発行所:東京都新宿区四谷一丁目5番地 エンデルレ書店/ヘルデル代理店)

この巡礼者について

この本は、そうした巡礼者たちの一人の体験をそのままにしるしたものです。

この巡礼者は名もないロシアの一信者で、幼い頃に事故で左腕が動かなくなり、仕事ができないために物乞いをしながら巡礼をします。持ち物はパンの皮を入れた背負い袋と聖書だけ、一日に100キロまたはそれ以上もの道のりを歩くこともあり、十年以上もロシアじゅうをまわり、遠くシベリアまで足をのばして巡礼の旅を続けたあと、その体験を指導祭司に語りました。指導司祭は彼の語るところをそのままに、漏れなく書き留めました。その後、その巡礼者がどうなったのかは全く知られていません。にも関わらずこの無名の巡礼は、自分の残した手記によって世界的に有名になり、ロシアの代表的な聖人、あるいは神秘家として、多くの人々から深い感嘆と尊敬とが払われるようになるのでした。

出版のいきさつ

この巡礼者の語った手記は、非常に霊的に優れた素晴らしいもので、その後何十年か経って、有名なギリシャのアトス山大修道院のある隠修士が書き写しました。その筆者が人々の手から手に書き写され、次第に愛読者を増しているうちに、多くの人々の間から、この手記を印刷物にしたいという望みが起こりました。

そして1884年に初めて出版されましたが、これはちょうどドストエフスキーやトルストイが活躍していた時代でした。以来、この本はロシアで非常に好評を得て、ほとんど「イミタチオ・クリスチ」にも準ずるものとして、多くの信者たちから広く愛読された名作となりました。

1925年にはドイツ語に翻訳され、翌年にはフランス語訳もできました。最近ドイツのヘルデル出版社はこの本のポケット版を出し、信者たちはふたたび感銘を新たにして広く感動を巻き起こしました。そこでヘルデル社の日本代表であるエンデルレ氏が、日本の信者にもどうかして伝えたいという思いから、邦訳ができる運びとなりました。

この手記の原文は、今でもロシアのカザン市にある聖ミカエル修道院に残っています。(同書の紹介文より)

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「無名の巡礼者」から学べること

この本は、ロシア神秘主義思想の素晴らしい教えに満ちていますが、

中でも一番大きなテーマは、霊的な書物と呼べるものがみなそうであるように、「祈り」に尽きます。

・祈りとは最大の善行

この本が神秘主義であるゆえんは、「神を知ることは、知恵の始めである」という聖書の言葉通り、人間の自然の知恵や判断をむなしいものとして、真の知恵を得るには、知恵そのものである神からのものを受けなければならないという徹底した考えであることからです。ですから、神の知恵を得たものは、身分の区別なく、たとえ乞食であれ、学問のない者であれ、非常に尊敬され、学識ある者がない者に教えを乞うという場面も、いくらでもあるのです。

この本では、人間の判断で祈りについて間違った考えを抱く人々を憂えています。すなわち、いろいろよい行いの実践に努力し、それを祈りを学ぶための手段としようとしている人々です。しかし、この本によれば、まず第一のことは祈りであって、決して善行ではありません。善行は祈りを学ぶための手段ではなく、むしろ祈りから出た結果なのです。すなわち、信仰者にとって、善行の中で一番すぐれたものは祈りであるということです。それは神こそが愛と知恵の根元だからです。

・絶えざる祈りの実践方法

この巡礼者は、ある日、祈ろうと思って教会に入り、ミサを受けます。そのとき「絶えず祈りなさい」という言葉に強く心を動かされますが、同時に疑問を持つのです。「人間は自分の命を支えるために多くの仕事をしなければならない。それなのにどうして絶えず祈るということが実行できようか?」と。そして、その実行方法をいくら考えてもわからないので、それを教えて下さる人を探そうと、旅に出るのです。それを説明できる人はなかなか見つからなかったけれど、何人目かで、ようやく、真の答えを得ることができたのでした。

その実践方法は詳しくこの本に書かれていますが、一部だけ抜粋します。

「それは「イエズスの祈り」というもので、それは、くちびると心と霊とをもってイエズス・キリストのみ名を呼びながら、心の中に主の現存を思い、そのおん哀れみを求めるということで、これをいつも、どこででも、何をしていても、眠っているときでさえ、こいねがうことです。こういう祈りは、「主、イエズス・キリスト、われを哀れみたまえ」ということばのうちに表現されます。こういう呼びかけの祈りになれると、人はそこから大きな慰めを受けると同時に、さらに絶えずこの祈りをしたい望みにかられ、この祈りなしに生活することを望まないようにさえなります。そしてその人の心には、この祈りが、全く自然に沸いてくるようになるのです。」

巡礼者はそれを聞いて、修道士の指導に従ってイエズスの祈りを実践し始めます。はじめ、それを唱えるのは、一生懸命の努力なしにはできませんでしたが、そのうちにはもう祈りたくて仕方がないという心の変化が現れ、ついには、祈りは霊と一体となり、他のことをしていても、人と会話をしていても、心の中は常に神に心を向け、祈れるまでになります。そして彼は神と交わるために孤独を好みながらも、その心は満たされ、出会う人出会う人への深い愛に満たされるのです。こうしてこの祈りは実を結び、旅先で実り豊かな出会い、また不思議な出来事によって、守られつつ、巡礼者は旅をしてゆくのです。

・祈りの聖なる力

この巡礼者は旅をしていろいろな人に出会います。またいろいろな事を見聞きします。その中でも、イエスのみ名や聖書の持つ不思議な力についての見聞は、まさにロシア神秘主義の真骨頂ともいえるものです。聖書には、悪霊に憑かれた人に向かって主のみ名を唱えると、悪霊が退散してゆくという記述がありますが、み名やみ言葉は、たとえ始めは本人が信仰のことをよく理解していなくても、悪霊にはそれがわかっていて本人に手出しができなくなるから、本人の精神状態によい影響を及ぼすということでしょう。この本には祈りや聖書が人間を変えてゆくさまが出てきます。

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パンプキンの感想

この本に出会ったのはもう10年以上も前ですが、そのときの感動は言うに言われぬもので、その後他にどんな素晴らしい本を読んでも、私の好きな本の10本の指に入るという位置は不動のものとなりました。そして今回また読み返してみて、読みながら心の中にこんこんと喜びが沸いてくるのを感じ、改めて素晴らしい本だという実感に浸っています。

この本はパンプキンが通っている教会で推薦されて読んだものです。うちの教会では、この「イエズスの祈り」の言葉は「主よ(またはイエス様)、あわれんでください」というものになっています。

物心ついたときから、深く考えないままに「イエス様、あわれんでください」という祈りの言葉に何気なく慣れ親しんできましたが、大人になっていろいろと心が汚くなってから(笑)この祈りを思うにつけ、この祈りは、というより、祈りというものは、やはり大人になればなるほど、つまり自分を何者かと思い、傲慢になればなるほど、出てこないものだということをしみじみと感じます。

子供は、人を裁きません。それは自分は教え導かれなければならない存在であることを知っているからです。だから、幼子の方が、素直に祈れるのだと思います。私たち大人は、よく人を裁きます。私も、気がつくと、人を裁いていることがよくあります。それは自分の方を問題ない人間としているからで、傲慢に陥っていることがわかります。祈るということは、他の誰でもない、自分こそが救われなければならない存在である、という自覚なしにはできないものです。それゆえ、祈るということは、素晴らしい行為なのだと思います。(もちろん、祈りが素晴らしい理由は他にもたくさんありますが)

アンドリュー・マーレーも述べているように、祈りは心の食事のようなもので、毎日、いやできることなら、毎時、補給しなければ、人間は枯渇してしまうのだと思います。

それにしてもこの本を読むにつけ、当時の聖なるロシアの民衆がいかに信心深かったかがわかります。どこへ行っても、信仰深い人々がいて、祈りについて語り合うと、互いに目を輝かして喜び、感謝するのです。まるでこの世におけるパラダイスのようなところだと思いました。

トルストイの民話には、こうした純朴な聖なるロシア民衆の神秘的なお話がでてきます。こういう本を読むにつけ、決意を新たにするパンプキンでした。(^^;

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