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臨死体験(NDE)

長いので目次をご利用ください

臨死体験とは

臨死体験の主な共通要素

臨死体験から学んだこと

スウェーデンボルグと臨死体験

臨死体験関連図書

パンプキンの感想

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臨死体験(NDE:Near Death Experience)とは

・NDE研究の始まり

事故や病気などで死にかかった人が、九死に一生を得て意識を回復したときに語る、不思議なイメージ体験。人種・民族・文化・哲学・宗教の種類や信仰者・無神論者の区別なく、その体験の内容にはある一定の共通したパターンがある。この体験自体は洋の東西を問わず古くから知られていたことだが、1970年代にふたりの先駆者、エリザベス・キュブラー・ロス(ターミナル・ケア(末期患者のサポート)とサナトロジー(死の科学・死生学)の世界的権威)と医学研究者レイモンド・ムーディが研究を始め、社会の大きな反響を呼び起こす。そして臨死体験という言葉が広く一般的なものとなった。

・NDEは一般に起こりうる体験

1975年、レイモンドが最初に研究発表した際、彼自身が集めたケースは150人であったが、現在では彼自身では1万人、その後の研究者たちはアメリカ中で8百万人以上の臨死体験者がいるとしており、これは約30人にひとりにもなる。(日本では立花隆が『証言・臨死体験』という本を出し、有名人のみの臨死体験談を集めているが、それを見るにいかに一般的に起こりうる体験であるかが伺える)

・NDEの意味するものは?

この体験が死後の世界の存在と人間の魂が死後も存続することの証しであるという考えもあれば、生の最終段階で弱った脳の中で起こる特異な幻覚に過ぎないとする考えもある。

が、それぞれのケースを見てゆくと、魂が体の外に出ていたときに、自分をひき逃げした犯人の車のナンバープレートを覚えておいて、蘇生後それを手がかりに犯人を捕まえたケース、自分が横たわっていた場所からは見えないはずの医者や看護婦の動きや医療装置を正確に言えたケース、別室にいた人の会話や様子を正確に記憶していたケース、その場にいた関係者の心の中まで読んでいたケースなど、脳の中の幻覚ということでは説明しきれない事例が浮かび上がってくる。いずれにせよ、ひと昔前では医学界で相手にもされなかったこの体験が、多くの研究者の成果により、普通に起こりうる体験であることが医学界でも認められてきている。

また、死後の世界の有無という問題以上に興味深いのは、体験者のほぼ全員が、体験中に何かを学び、それを境に人生観がガラリと変わり、非常に良い方向に人格的な変化を遂げていることである。私たちは臨死体験者から何を学ぶことができるのだろうか。

・NDE研究の現在

現在、心理学者、精神・神経科医、脳生理学者、宗教学者、文化人類学者、哲学者など多方面の学者がこの研究に関心をよせ、アメリカだけでなくイギリス、フランス、北欧でも研究が盛んになり、国際的な研究団体である国際臨死研究協会(IANDS=International Association of Near Death Studies、事務局は米コネチカット大学、会長ケネス・リング心理学教授)が組織された。1990年にはワシントンのジョージタウン大学で13カ国から300人の研究者と体験者を集めて第一回国際会議が開かれている。また臨死体験の国際的研究誌『臨死研究ジャーナル』も発刊され、数千例に及ぶ臨死体験者の体験記録が各地の研究者から寄託され保管されている。(立花隆著『臨死体験』他から抜粋、要約)

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臨死体験の主な共通要素

ムーディは臨死体験の共通要素として次のものをあげています。ただし、一人の体験にすべてが入っているわけではなく、このうちどの要素を体験するかは個々のケースにより異なっています。

@死んだという感覚

最初、臨死体験者(以下体験者)は自分が死んだという感覚がなく、上から自分の体を見下ろしてもそれが自分だとは気づきません。しかしやがてそれが自分だと気づき、周りにいる人に話し掛けたり触ろうとしても、彼らには聞こえず、何もかも手からすり抜けてしまいます。(その時体験者には、その場にいる人間の心が読めるという報告があります)その後、体験者は「アイデンティティーの強化」を体験します。つまり、誰それの妻でもなく、誰それの母でもない、ただの「私」自身であるという感覚を強く持つのです。風船の糸が切れたかのように自由を感じると表現する人もいます。この時点で、はじめ感じていた不安は大きな幸福感に変ります。

A心の安らぎ、痛みのなさ

例えば心臓発作で鋭い痛みを感じていた体験者は、それがほとんど強い快感のようなものに変わったと表現しています。痛みを和らげる脳内麻薬のようなものがあることは知られていますが、他の要素はこれでは説明できません。

B体外離脱

しばしば医者が「ご臨終です」というのを聞くと、体験者は上に昇っていって、上から自分を見下ろすという体験をします。その時、彼らには別の体(光のようなものからできているが、手足もある)があるといいます。

C暗いトンネルを抜ける

体外離脱をし、「糸が切れた」後、暗いトンネルを抜けてまばゆい光の中に出ます。階段を昇ると言う体験者もいます。トンネルを抜けるとき、雑音を聞いたという人もいます。

D光の人々との出会い

トンネルを抜けたあと出会う光は、地上で見たどの光よりも明るく、それでいて目を痛めない、暖かく生き生きとしてすべてにしみわたり、人々を愛で満たす光だといいます。実際、体験者によると、「光」も「愛」も同じ物を指すといいます。しばしばここで、体験者は亡くなった親戚や友人に出会います。彼らと言葉を交わすときは、実際の言葉ではなく、考えが頭の中に伝わってくる、テレパシーのような方法でコミュニケーションをとるようです。

E光の至高の存在(神など)との出会い

体験者のそれぞれの宗教的な背景により、それを「神」「イエス」と表現する人もいれば、「仏陀」「アラー」あるいは別のものと表現する人もいます。いずれにせよ、愛と理解を放出しているその至高の存在に出会い、体験者はこの方とずっと一緒にいたい、と思うようになります。しかしこの時点で、体験者はこの至高の存在から、地上の体に戻らなければならないことを告げられます。しかしその前に、人生の回顧があります。

F人生の回顧

体験者によると、その世界には私たちの住む地上のような「時間」と「空間」の概念がありません。それゆえ、この人生の回顧は、まるで3次元スクリーンに囲まれたように、場面のただ中にいて行われます。そして人生の出来事を時間を追って見せられるというよりも「全人生が一度に」見せられるといいます。さらに、第三者として「見る」だけでなく、自分がとった行動のひとつひとつに周囲の人がどう感じたかを、即座にその人の気持ちになって感じることができるのです。

この回顧の間、光の至高の存在はいっしょにいて、手伝ってくれます。そこで人々が何を学んだかは後に述べます。

G天に素早く昇ってゆく

すべての体験者がトンネル体験をするわけではなく、中には、急速に天に昇ってゆくという体験をする人もいます。心理学者ユングも心臓発作を起こした際この体験をしています。

H戻りたくないという思い

体験者の多くにとって、臨死体験はとても心地よいものなので、地上に戻りたくなくなり、しばしば自分を救った医者に腹を立てます。しかしそれも一時的な怒りで、しばらくすると、彼らはまた生きてゆくチャンスを得てよかったと思うようになります。

多くの体験者は、(光の至高の存在または亡くなった親戚に)戻るか、とどまるかを選ばせてもらったと感じています。もし自分だけのことだったらとどまっただろうが、まだ子供がいたり配偶者や親が悲しむだろうと思って戻ってきたというのが一般的です。

あるロサンゼルスの女性は人生で2度も臨死体験を経験しました。一度目は自動車事故にあった1950代後半のときで、そのときは「まだ若すぎるわ。ダンスだってまだまだしたいのに」と文句を言ったら、光の至高の存在はおかしそうに笑って、地上に戻ることを許してくれたそうです。二度目はその30年後、手術中の心臓発作のときで、そのときも「子供たちがいるから」と文句を言いました。光の至高の存在は、「いいでしょう。でもこれで最後ですよ。今度は帰れません」と言ったといいます。

I異なった時間と空間

人生の回顧でもふれましたが、体験者はこの地上の「時間と空間」という束縛から解放されていたといいます。時間に関していえば、それは「永遠の中にいた」ともいうべきもので、例えば、体験はどのくらい続いたのですかと聞かれたある体験者は、「一秒とも言えるし、10000年とも言えるし、どちらも大して違いはないのよ」と表現しました。また空間に関しては、自分が行きたいと思えばそずその場所へゆくことができたと言います。(レイモンド・ムーディ著『Beyond the Light』 より抜粋・要約)

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臨死体験から学んだこと

体験者は、地上に戻った後、ほとんどが精神的に大きな変化を遂げます。それもよい方に、変化を遂げるのです。彼らは臨死体験から何を学んだのでしょうか。

  1. 神を信じる

体験者にはそれ以前に信心深かった人も無神論者も、またいろんな宗教、宗派の人も含まれていますが、体験後、神が存在すると確信するようになる人が一般的です。

「体験前、私は無神論者でした。神というのは、人間のイマジネーションが作り出したものだと思っていました。しかし今では、神が存在するということを確信しています。存在するすべてのものに、神のエッセンスが内在しているのです。それを私はいまここに実感しています。」

「神というものは、ものすごく巨大なエネルギー源のようなものだと思います。それがこの世界の核にあり、我々人間はその核から離れたアトムのようなものです。神は我々すべての中にいる。我々はみんな神の一部だと思います。」

「体験後は、この地上で所有するものに対しては全く関心がなくなりました。欲望もなくなりました。いまでは明日のことなど全く思い煩っていません。神様がどうにかしてくださるだろうと思っています。」

ただし、これは体験のひとつである「光の至高の存在」のことを指しており、これを何と呼ぶか(イエスか、アラーか、仏陀か、その他)は個人の文化的、宗教的背景によって違いがあるようです。

A神は愛である

人生の回顧を経験した人は、次のように言っています。

「『光の存在』は裁きを与えるようなことは決してしませんでした。ただ私に無条件の愛をそそぎつづけただけです。私は自分を弁護する必要もなければ、人に罪をかぶせて非難する必要もありませんでした。過去をよりよいもののように見せかける必要もありませんでした。すべてはあるがままでよかったのです。…(中略)彼は「おまえはこうすべきだった」とさとすようなことはいっさい言いませんでした。ただ、「他にもできることがあったかどうか考えてごらん」といっただけです。彼はモラルを強制するようなことはしませんでした」」

「神様は私の一部です。神様は私の最も本質的な部分です」

神と呼ばれようとなんと呼ばれようと、その「光の至高の存在」は、人間を裁いたり、罰を与えたりするような存在ではなかったということをみなが証言しています。それは体験前に宗教教育を受けていた者にとっては、受けてきた教えをくつがえす新しい神観であることが多く、体験者は次のような宗教観を持つように至るのです。

B普遍的な宗教心へ(すべての宗教はひとつ)

体験者はその後どのような宗教観を持つか、というリサーチには興味深い結果が出ています。それは、体験者は既成の特定宗教を離れ、より普遍的な宗教心を持つ方向に向かう傾向があるということです。つまり、「いろんな宗教はそれぞれ自分たちの神こそ正しい神だと主張しているが、それは本質的には同じ神だ」ということです。個別的な宗教のドグマに固執することは意味がない、ドグマは人間が作ったもので、神が作ったものではない、という思いを持ち、教会に通うことをやめるが、かえって宗教心はあつくなったとする人が多くなっていました。

「教会で説教をしていることはみんな嘘です。牧師は神の教えに従わなければどうなるこうなると、聴衆をおどかすようなことをすぐにいいますが、あんなことはありません。私は今後とも自分なりの宗教心を持ちつづけていきます」

「教会の教えは、私が臨死体験で学んだことのアンチテーゼです」

「宗教というのは、すべて同じ真理から発したものです。…結局、純粋な宗教は同じだということです。」などなど。

C人生でもっとも大事なものは愛と知識

人生の回顧で、体験者は自分の行動が周囲の人々をどんな気持ちにさせたか、その人自身の気持ちになって感じとることができると報告していました。例えば、なにか愛に背く行動を行うと、すぐに相手の意識に入り、その人の悲しみや傷ついた心や後悔を感じとるのです。このような体験をし、人々は人生で一番大事なものは愛であることを悟るようになります。人生とは、愛することを学ぶ学校であり、人生という限られた時間の中で、職場、家庭その他の中でそのことを学んでいかなければならないのでした。また体験者は、二番目に大事なものは知識であると考えるようになります。私たちが人生を終えた時、持ってゆけるものはこのふたつだけなのです。

ニューヨーク、ロチェスター市の除雪車運転手をしているトムという男は、33歳のとき車の修理中下敷きになって意識不明の重体になっている間臨死体験をしました。その後、高校しか出ていないトムは量子力学を始め物理学を独学で学び始め、ついに大学に入って勉強をし直すようになります。しかし相変わらず仕事は運転手を続けているのです。彼は体験によって、知的能力と知的方向付けを変えるような変化を得たのでした。

D人生とは光と闇の選択の連続

体験者はまた、次のようなことを学んでいます。人間の精神には、「光」と「闇」のどちらかが占めている場所があり、その中間はないということ。すべてのことは「善」と「悪」のどちらかに分けられる。灰色や中間はない。そして時にはそれがどちらかを見分けることは難しいけど、その両者は水と油のように、互いを放逐するもので、決して同時に同じ場所を占めることはないのです。

私たちの心は土地のようなもので、そこに良い芽も出れば悪い雑草も生える。良いものと悪いものを見分け、悪い雑草を抜いていくことは本人の選択にかかっている。私たちの見るTV、語る言葉、他人に接する態度、その他日常生活の選択のすべてにおいて、私たちは「光」か「闇」のどちらかに向かっている。今自分がその途上のどの位置にいようが関係ない。どんなに小さなものでも、その「一歩」が重要なのだ、ということです。

人生を作っているのは、他でもない、自分であること。自分に人生を選択していく力があることを知っていることは非常に大事なことです。

これらの教えは、実は聖書にも始めから語られていることでもあります。天国とは漁師が網をかけて中からよいものと悪いものを選り分けるようなもの、また私たちの心は畑のようなもので、良い草も悪い草も生やしておいて、悪い草を束ねて火にくべること…。私たちは、人生で最も大事なことは「愛」と「知恵」であることを念頭に置き、自分自身で人生を選び取ってゆくことが必要なのだと思います。

E死とはさなぎから蝶への変身

最後に、臨死体験が非常に貢献している分野として、末期患者など、死の床にある人々の死への恐怖を和らげるというものがあります。体験者のほぼ全員が、体験後死を恐れなくなります。死とは新たなる旅立ちに過ぎない、それも非常にすばらしい世界への旅立ちである、という考えを持つに至るからです。

医療技術が発達するにつれ、人間の生と死の場面が病院という場所に閉じこめられ、現代人がじかに生と死に触れる機会が少なくなりました。それにつれ、死とは恐ろしいもの、忌むべきものという意識的・無意識的な観念ができ、それについて語ることをタブー視するようになり、医者が死期を間近にした患者と率直に死について語ることすらできない傾向にあります。

末期患者へのターミナル・ケアの世界的権威であるキュブラー・ロス女史は、死を間近にした子供たちと率直に死を語ります。彼女はひっくり返すと蝶になるさなぎのぬいぐるみを持ち歩き、死とはさまざまな制約の中に閉じこめられたさなぎが自由な蝶に変身することであることを説いています。臨死体験者たちが体験した「死」も、まさに「より自由な、より自分らしい自分になること」であったのです。

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スウェーデンボルグと臨死体験

以上のような臨死体験者が語る事柄は、ニューエイジ思想が語る宗教とかなり似通っていることがわかります。

スウェーデンボルグは、現代の臨死体験の先取りをしているとリング氏(国際臨死研究協会会長)は述べています。それは、臨死体験者は死の入り口をかいま見たに過ぎないのに対し、スウェーデンボルグは無数の死者との交流によって、臨死体験のかなたに果てしなく広がる死という家全体を探索し、描写しているからです。以下に、パンプキンがスウェーデンボルグの著書『天界と地獄』などから見つけた、臨死体験者が語ることとの共通点をあげてみます。(主なものだけ)

@神について

神が愛であって、人間を裁いたり罰を与えたりするような方ではないこと、神は巨大なエネルギー源であって、人間に流入し、従って神は人間の一部でもあること。

A善と悪について

人間は善(天界)と悪(地獄)からの流入を受けており、すべての行動は善と悪のどちらかに分けられること、その中間はないこと、また人間はその両者から行動を選び取る自由意志があること

B悔い改めの大切さ

Aから、人間は自分の人生を選択することができること、自分の行動の中から善と悪を選り分け、悪から離れようとすることが大切であること

C普遍的な宗教

さまざまな宗教の神は同一であり、あらゆる宗教はひとつであること(従って特定宗教に入っていなければ救われないということはない)

D死は次の世界への移行である

死とは絶滅ではなく、生の連続であり、ひとつの状態から別の状態への移行にすぎないこと。人間はみな、アイデンティティの意識と生前の記憶を失うことなく、古びた衣服を脱ぎ捨てるように肉体を脱ぎ捨て、肉体と類似した霊的身体をもってよみがえること。

E時間と空間

霊界では地上のような時間と空間の観念がなく、時間とは状態の変化であり、空間とは欲することで移動できることから「意志(または欲すること)」によってはかられる距離のようなものであること。また霊界では、「意欲」ということが非常に大事で、「意欲」と「能力」とは同義であり、欲することすなわちできること、であること。

F光の人々

天使や霊は無形の精神であるとか生命を宿すエーテルのようなものだとかいう考えが流布している中で、スウェーデンボルグははっきりと、人間は死後も地上での身体のように形ある身体をもち、地上と同じように建物や自然のある世界に生活していることを述べており、臨死体験者たちの証言と一致しています。

G地獄

地獄とは、文字通り「硫黄と火の燃えさかる場所」ではなく、心の状態であること。この地上で希望を失い、空虚な心をもった人々がいく「闇とみじめさ」の世界が、地獄であること。(臨死体験談の中には、まれに地獄からの報告もあります。自殺未遂者など)そして、「罰」とは地獄の責め苦ではなく、他ならぬ光の減少であり、逆に「報酬」とは光の増加であること。この場合、光とは善なるものすべてのエッセンスのことで、美、純粋な愛、真理、知識、自己犠牲、他への思いやりといっても同じことです。

…その他あげればきりがありませんが、入り口(部分)と全体という差はあるものの、具体的な霊界での観念について、多くの一致がみられます。

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臨死体験関連図書

『臨死体験(上・下)』(立花隆著 / 文芸春秋社 / 上下各1800円)

ジャーナリスト立花隆がNHKで臨死体験の番組を制作し、二千万人を超える視聴者を得たが、TVという媒体ではあまりにわずかの内容しか盛り込めなかったため、厚い本にして出版した。

あくまでジャーナリストとして、さまざまな視点から臨死体験の検証を試みています。興味深い考察は多々あったものの、臨死体験が死後の世界を見てきたものだと信じている私個人としては、疑うという姿勢を崩さない立場での細かい検証がうるさいと感じる場面もけっこうあり(笑)「ああ、それはいいから早くその先の考察に進んでよ」という感じでした。懐疑的な人や入門書としてはおすすめ。

『証言・臨死体験』(立花隆著 )本のデータは後ほど追加します。

各界の有名人の臨死体験談を集めたもの。かなりバラエティーに富んだ内容。

『かいま見た死後の世界』(原題:Life After Life / レイモンド・ムーディ著 / 中山善之訳 / 評論社)

臨死体験研究の第一人者、ムーディ氏が初めて出版し、臨死体験を広く世に知らしめたベストセラー本。

『続・かいま見た死後の世界』(原題:Reflections on Life After Life / レイモンド・ムーディ著 / 駒谷昭子訳 / 評論社)

その続編。

『光の彼方にー死後の世界を垣間見た人々』(原題:The Light Beyond / レイモンド・ムーディ著 / 笠原敏雄他訳 / TBSブリタニカ)

臨死体験の共通項や批判に対する答えなど、ケーススタディーのまとめをした本。

『臨死体験で見た地獄の情景』(原題:Beyond The Darkness/ アンジー・フェニモア著 / 同朋舎出版)

臨死体験者は天国に行った者がほとんどだが、これは地獄を垣間見たという点で異色。ある女性の手記だが、自殺未遂をしてみてきた世界を書いている。臨死体験が広く世に広まってから安易に死を選ぼうとする若者がいることを憂えた著者が手記を公表する決意をした。決しておどろおどろしいものではない、生きることについて深い洞察が含まれた、示唆に富んだ良書。

『バーバラ・ハリスの臨死体験』(バーバラ・ハリス他 / 立花隆訳 / 講談社)

バーバラ・ハリスという女性が苦しい病気から臨死体験をし、その後の人生が一変していく様を描いた、自伝としても非常に価値ある一冊。

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パンプキンの感想

死ぬことは、誰ひとりとして避けることのできない関門です。それが来ることはまったく当たり前のことであり、日常茶飯事であり、人間はそれと背中合わせに生きているのに、私たちの多くはそれについて考えまいとして、無意識の隅に追いやろうとします。明日、自分が死ぬかもしれないということを、その可能性が誰にでもあることを、私たちは忘れて生きているのです。テレビで毎日のように死亡事故が報道されても、「それは特別なことで、自分には起こり得ないことである」と考え、自分でなかったことにかすかな安堵を覚えながら…。

パンプキンの母親はパンプキンが小学生の頃、40歳で亡くなりました。今でいう突然死で、前の晩まで全くいつもと変わりなく、私と会話をしていましたが、次の日の朝には冷たくなっていました。それでも私は日曜学校に通っていたから、「死は終わりではない」ということが感覚的に身体にしみついていました。母親の亡骸を前にしても、本当の母親はもう別のところに行っている、これは抜け殻だと思っていました。だからそこには、先に天国へ旅だってしまった母親にしばし会えない寂しさはあっても、どん底の絶望というような感情はありませんでした。そのことはありがたく思っています。そして自分自身が死ぬことも怖くありません。死ぬとき痛いのはいやだけど。(笑)

スウェーデンボルグの本や臨死体験者の体験談などは、死への恐怖を取り除き、私たちが真っ向から死と向き合うこと、従って生と向き合うことを助けてくれると思います。

臨死体験者の言葉は、自分の人生が学校であり、自分が与えられた時間が残り短いということをいつも思い出させてくれます。私たちは日常にまみれ、目先のことだけを追って、非常に狭い視野で一喜一憂しながら暮らしがちです。物質的・身体的な幸福を追い求めること自体を悪いこととは思いませんが、(そしてその方面の楽しみは私もちゃっかり享受しています(^^;)広い視野から、人生で一番大切な、「愛することを学ぶ」ということだけはちゃんとふまえていきたい、それに背いてまで物質的なものを追い求め始めたらもはや糸の切れた凧になっちゃうな、と思います。

人生とは選択の連続。テレビを見るのか、受験勉強するのか、それとも自分の時間を削っても誰かの勉強を見てやるのか、…などいくつか可能性がある中で、今、何をするのか。それによって自分の方向性が決まってゆく。こういう考え方は、すごく素敵なことだと思います。人生を作ってゆくのは、あくまで自分です。それを知らないことは、その能力がないも同じことです。ぐうたらで流されがちなパンプキンは、時々こうしたことを思い出す必要があるな、と感じます。(^_^;

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