

長いのでよろしければ目次を使ってください(^^;

スウェーデンボルグに並ぶ神秘家と言われ、また今世紀中「最もキリストに似た人物」と言われるキリスト教の伝道者。詩人のラビンドラナート・タゴール、政治家のマハトマ・ガンジーらとともに、 インドの三大精神的巨人のひとりにも数えられている。劇的な回心 1889年9月3日、パンジャップ地方のランプールという小さな村に、シーク教徒の裕福な地主の息子として生まれる。(シーク教とは、ヒンドゥー教とイスラム教の最も優れた要素の融合を目指した宗教)母親は非常に敬虔な婦人で、サンダー・シングは有形無形の宗教的感化を受ける。 やがてミッション系の小学校に入学するが、両親はここがキリスト教主義の学校だと知らずに入学させてしまった。サンダー・シングはキリスト教を邪教だとして反発し、伝道の邪魔をしたり聖書を焼いたりした。しかし彼の心深くには満たされない切実な精神的な渇きがあった。ヒンドゥー教の学者やシーク教のサドゥ(聖者)のもとをたずねるが心の平安は得られず、ある日とうとう午前3時に起きて冷水を浴び、「神よ、本当にいらっしゃるなら救いへの道を示してください」と祈った。聞き届けられなければ自殺する覚悟だった。 祈り続けて、4時半ごろ、部屋中が栄光に満たされ、高貴な姿が現れて「あなたはなぜ私を迫害するのか」と語った。それは彼が待っていたクリシュナでも仏陀でもなく、彼が反逆を続けていたキリストだった。キリストを拝した彼の心は言いようのない喜びと平安に満たされ、一夜にしてキリスト教に回心し、人生が一変する。 家からの追放 キリスト教徒になりたいという彼を、親戚友人らはありとあらゆる手段を使って迫害した。家族からは追放され、特に父親からの脅迫が激しかった。親戚に毒殺されそうになったりもした。しかし家を失って寒空で一夜を明かした彼の心は天上の喜びに満ちていた。 チベットおよび世界伝道 キリストに仕える生涯を決意した彼はインドの托鉢僧(サドゥ)の衣を着て、聖書1冊、毛布1枚以外何も持たず、神にのみ頼って、母国語ウルドゥー語で文字通り地の果てまで福音を伝えていく。北インドをはじめネパール、ブータン、ビルマ、チベットその他の未開の地に死を覚悟で伝道旅行をする。何度か山賊おいはぎ、毒蛇、猛獣、厳しい気候などの苦難に遭い、特に入国して伝道すれば死刑になるという藩王国やチベットにおける迫害はすさまじいものだったが、その度に彼は救い出されて、いかなるときも平和な喜びに満たされていた。 やがて世界各国からの招きが殺到するようになり、2度のヨーロッパ伝道旅行も行ったが、その高い霊性に空前の感動と評判を呼ぶ。1919年には日本をも訪問している。 「サンダー・シングはインドの特質をもってキリストの光を世界にあらわした。・・・彼と共にあって離れるときに、人は自分自身を忘れ、彼をも忘れ、ただキリストを思う」これが人々に与えた印象だった。 1929年、最後のチベット伝道の旅に発ち、そのまま消息不明となる。 サンダー・シングの人柄 サンダー・シングのヨーロッパ伝道旅行は2回だけだったが、彼は説教そのものの前に、まずそのキリストを思わせる人柄で、人々を魅了したといわれている。 「サドゥ(サンダー・シングのこと)はすべての牧師や教師たち、そして異なるキリスト教概念に導かれてきたひとびとからさえ愛されたことは、明記しておくべきだろう。サドゥが知識について語った意見の中には、彼らを悲しませたものがあったかもしれない。しかし、特別な気品と体験を神から授かったキリストの純粋な使徒であり、兄弟であることを示す何かが彼の中に存在することは、彼ら全員が認めていた。」 彼は外見上も背が高くて体格がよく、非常な美男子で、優しい態度と洗練されたマナーを備えた男性であったが、人々を引きつけるのは彼の個人的な魅力ではなく、彼の生き方の簡素さと誠実さだとだれもが感じていた。「彼はキリストのようだ」とひとびとが言うのを、だれもがひっきりなしに耳にしたのである。 彼の著作は、キリストのようにすべてわかりやすいたとえ話を用いて、単純な言葉で深遠な真理を表現している。彼は前書きにこう書いている。 「瞑想と祈りの中で、内面的感覚を通して実在について私が知り得たことすべてを説明するのは不可能である。こうした荘厳な瞬間に魂が感じる奥深い真理のすべてを、言葉で表現することはできない。そのような真理は、語られなくとも受け入れる心さえあれば、たちまち容易に理解される。言葉は実際、人を真の理解より誤った理解へと導くことが多い」 サンダー・シングは存命中から多くの伝記が出され、世界40カ国以上に翻訳されている。日本でもサンダー・シングは長い間愛読者を得ていて、その著作がすでに2度翻訳され、また新たに3度目の翻訳が全集として出版され始めていることは興味深い。 |
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サンダー・シングの思想は東洋的(インド的)キリスト教とも言われます。同じ聖書に基づいてはいますが、その東洋人としての優れた直感的資質から来る単純で霊感あふれる教えは、西洋キリスト教の指導者たちの心をもゆさぶり、西洋キリスト教で失われていたものを呼び起こしたとされています。 「論理」ではなく「直観」を主とした思想を言葉でまとめること自体がそもそも難しいのですが、以下に印象深い箇所をまとめてみます。 1)西洋的アプローチと東洋的アプローチ ・論理と直観 西洋文明は、科学というひとつの方法論によって、ひとつの世界観を形成してきました。それは目に見えて、計測でき、分析を経て実証できてはじめて、ものごとの存在が認められる世界です。実証できないものは、存在するとはみなされません。 しかし、このアプローチが絶対唯一のものというわけではありません。存在するものの中には、目に見えず、実証できず、言語化できないものがあるかもしれないからです。目に見えない無限の存在である神を対象とする宗教は、まさに科学的(論理的、分析的、演繹的)アプローチではうまくいかない事柄のひとつと言えます。 サンダー・シングは神秘家と呼ばれますが、彼は 宗教的な事柄を把握するには人間の頭による思想や論理では限界があるとし、それよりも直観や感覚、経験を重んじました。「花について多くのことを知るには、長い時間を必要とする。しかし、その香りを楽しむには、一瞬しかかからない。直観もまた、このように作用するのである」 ・肉の目と霊の目 彼はしばしばヴィジョン(幻視)を見るという神秘体験をしていますが、その中に現れたキリストはこう語っています。 「真の幸福は目で見えるものによらず、霊的な視覚によって生まれ、心の上にあるのだ。・・・地上の目で認識できるのは、地上のものだけである。なぜなら、肉の目は不滅の神や霊的な存在を見ることができないからだ。・・・しかし、霊の目が開かれれば、霊である神をはっきりと見ることができる。今、あなたに私が見えているのは、肉の目ではなく、霊の目で見ているのである」 サンダー・シングによれば、この「霊の目」というものは、人間がどのような知識を持っているかとは関係のないもので、知識と「真の知覚」は、例えれば、色彩についてさまざまな知識を持っている生まれつきの盲人と、目が見えている人ほどの違いがあると言います。色彩についてどんなに聞いていても、実際に目が開かれるまでは、本当の意味で色について知っているとは言えません。宗教的な事柄もそのようなものだと言えます。神についてどんなに知識を持っていても、実際に神と出会い、神と交わりを持っている人とは雲泥の差があります。前者にはいろいろな懐疑や批判や議論が伴いますが、神そのものを知っている人には、その必要はないのです。 ・哲学者と神秘家 サンダー・シングは、思考と直観を対比させるわかりやすい譬えとして、しばしば哲学者と神秘家を用います。哲学者は、自分の知識に頼って思考する人間を指します。そして神秘家は、自分で考えるよりも、祈りによって神と交わり、神から知恵を受けている人間を指します。 神秘家と哲学者がしばらくの間一緒に黙って座っています。その後神秘家は、哲学者の考えていることがわかるといいましたが、哲学者には、まったく見当がつきませんでした。言語という分析的、論理的な媒介がないと物事にアプローチできない「論理」「思考」という方法論は、時にはこのように遠回りになることがあるのです。そして、人生とは、幸福とは、といったテーマに対しては、哲学的なアプローチは不向きであるというようなことをサンダー・シングは書いています。哲学は何百年もの間、方法論や言葉こそ新しくなっているけれども、依然として進歩せず、目的地にはついていないのは誰もが認めるところです。さながら目隠しされて搾油機にくくりつけられたインドの牛のように、ぐるぐる同じところを回って目隠しをとられると、また同じところにいるのです。 「啓示」の中のイエスは彼にこう語っています。 「真の幸福が人の考えによるものだとしたら、すべての哲学者や思索家には幸福がありあまっているはずである。しかし、私(イエス)を信じている人は別として、この世の哲学に明るい人々は、彼ら独自のルールを貫くことから得られるつかの間の喜びを除けば、幸福とはまったく縁がない。」 哲学者や思索家の中に自殺する人がけっこういるのも、上のことを裏付けることと思います。 ・西洋的キリスト教の欠点 このように、真の宗教とそれに伴う真の幸福とは、頭ではなく心の問題であり、そこに到達するのに必要なのはいろいろな知識や学問よりも、個人個人が神と交わって神を直接体験することだというのが、サンダー・シングの思想です。 ところが、西洋文明を築いた科学的な方法論は、あらゆるものに浸透してゆき、人々は宗教に対してもこのアプローチをとるようになっていきました。その結果、宗教は心の領域の事柄というよりも、「頭」の領域の事柄になってしまい、それが宗教の世俗化や腐敗を招く結果となりました。真理はただの知識、学問となり、かくして「神について」知っていても「神そのもの」を知ってはいない人たちが、懐疑や議論や批判に明け暮れ、さまざまな派閥や闘争をも生みだしていったと思われます。 サンダー・シングは、「啓示」の中で、 霊的な事柄(聖書)を理解するのに必要なのは知識ではなく、聖霊との交わり(祈りによる神との個人的な交わり)であると書き、西洋的キリスト教に決定的に不足しているのは「祈り」であるとしました。「もっと祈りに費やすべき時間を、ひとは新聞を読むのに使いすぎるのです」彼は行き詰まって相談に来る牧師たちには、いつも「もっと祈りなさい」と答えていました。「目は、光がなければ役に立ちません。同様に知識も、真の光がなければ、暗闇でものを見ているように見間違え、霊的な真理を誤解します」 ・組織化と個人 これも西洋キリスト教とサンダー・シングの教えの違いです。 サンダー・シングは生涯どの教派にも属さず、ただキリストに属すると公言していました。「私たちの教師はキリストのみである」と書かれている聖書に忠実に、誰の弟子にもならず、自分も弟子をとらなかったのです。 これは、人間から知識を得るよりも、祈りによって直接神から教えられるという方法を重んじる彼としては当然の結果と言えます。 「わたしはどの宗派にも属していません。わたしはひとりの単純なキリスト教徒です。宗派主義は『けんか主義』となります」 彼ははじめの頃神学校に通いましたが、後に退学して、精神的に得るものはあまりなかったとしています。人から学ぶ学問ではなく、祈りによって、どこの神学校でも教えていないような豊かな知識を次から次へと得ることができたのでした。彼は キリストこそ真理の源泉であるとして、「キリストの足下で祈りをささげる、これこそ世界一偉大な神学校であります」と語っています。さまざまな宗派が存在し、争っている状況で、サンダー・シングは分析的な態度を捨て、宗派や教義の制限を超えて、いかなる形式のキリスト教をも容認する心構えでなくてはならないとしています。 西洋キリスト教は、サンダー・シングのこうした態度に大いに学ぶ者があるように思います。教会組織ががっちりと出来上がり、何事にも上からの伝達があり、真理についても上の人たちが会議で決めた教えが公布され、教派同士が争っているというような状況の中で、もう一度原点に帰り、ひとりひとりがただひとりの教師、キリストに教えを受ける生活をするべきではないかと思います。そうすれば、人々は「○○派に属するキリスト教徒」ではなく、ただの「キリスト教徒」になれるのではないでしょうか。 2)祈りについて サンダー・シングのメッセージをただ一言に要約するとすれば、 「もっと祈りなさい」ということに尽きます。祈るとは、自分の知恵を放棄し、神に聞こうとすることでもあります。それはこれまで述べたような、信仰を頭のものから心のものにするためには不可欠なものなのです。彼自身も祈りの人であり、毎朝の2時間を聖書を読んで祈り、黙想する時間にあてていたと言います。彼の言葉があれほど人々の心を捉え、またあれほど困難な伝道の度を成し遂げられたのも、この祈りというエネルギーの(聖霊の)源泉を持っていたからではないかと思われるのです。 「毎朝、神の御言葉を静かに瞑想し、祈ることにある程度の時間を割きなさい。そうすれば、あなたの人生は驚くほど変わるでしょう」 これまで「精神世界2めぐり」で紹介してきた霊性豊かな人々もみな、祈りの人であるという点で共通しています。彼らは人から学んだ知識ではなく、神から受けた知識によって人々を魅了したのです。 では祈りとはどのようなものだと彼は言っているのでしょうか。 彼によれば、祈りとは、神様に特別なお願い事をすることではありません。 「祈りによって神の計画を変えることはできない。そうではなく、祈りの人自身が変えられるのである。」 祈りとは、呼吸のようなもので、それは霊的生命にとって空気や水、熱や光のように欠かせないものだということです。それを続ければ、霊は太陽の光と熱を浴びた植物のようにすくすく成長し、幸福に満たされるばかりか、キリストに似た人格にまで変えられてゆくというのです。しかしそれをやめれば、霊の生命はたちまち衰えてゆき、さまざまな誘惑や悪い思いの虜になって滅んでゆくといいます。これをサンダー・シングはさまざまな例えを用いて表現しています。 ・魚たちはときどき呼吸をしにあがってこなくては、川底で生きていけない。それと同じことがわたしたちが昼も夜も働き、仕事や行事で毎日非常に忙しいこの世界についてもいえる。魂もときどき水面にあがって呼吸をしなくては、水底で死んでしまうにちがいないのである。 ・よい花も手入れをしなければ質が低下して野生に逆戻りしてしまうように、祈りや霊的生活を無視すると人生という大海の中におぼれてしまう。祈りによって私たちは世にいながらにして世のものによって害を受けず、それを有益に利用することができる。 ・神は人間の本質に飢えと渇きとを吹き込まれた。それは神のみが満たすことができるもので、それらを世の富や自尊心、名誉などで満たそうとするのは、火を消そうとしてガソリンを注ぐようなものである。祈るものは渇くことのない平安と満足を得る。 ・祈ることで主と語り合う間柄になれ、主と交わることでだんだん主に似たものとなっていく。 伝道旅行中、夜中の3時ごろ祈っているサンダー・シングを発見した人が、「なぜ、祈りにそんなに時間がかかるのか」と聞いたところ、彼はこう答えています。 「集中するのに15分から20分かかります。それから祈り始めるのですが、言葉は一切使いません。私は愛するイエスがとても身近にいると感じ、両手をイエスの両手に置きます。朝がきて祈りをやめなければならない時期になると、イエスから離れるのがとても辛いと思います」 つまり、サンダー・シングは、アンドリュー・マーレーが教えているような「神を待ち望む」祈り、念祷をしていたと言えます。ただじっと座って、神からの満たしを待ち望むこと。祈りは悔い改め以外に、このような念祷が不可欠なのではないかと思います。 3)福音の中心はキリスト サンダー・シングは次のように述べています。 「 真理とは何か。理論でも教義でもなく、イエス・キリスト自身である」これは、イエス・キリストの人格を指していると思います。「真理とは、あなたが何を知っているか、ではなく、あなたがどんな人間であるか、である」という言葉がありますが、私たちが頭で思考するところの、何が正しいか、何が間違っているかというような理論とか議論とか批判は真理ではないというのです。私たち自身が、たとえ理屈で説明できなくても、多くを語らず黙っていても、イエス・キリストの人格・・・無私の、愛の人格に化せられれば、それこそが真理のしるしなのです。上に述べたように、教会は数多くの派閥に分かれています。それはあまりにも頭で考えすぎ、教義の細かい違いについて議論しあうからだろうと思います。しかし、イエス・キリストを愛し、祈りを通して個人的に交わり、そしてイエス・キリストの人格に似た者と変化していくということが中心となれば、おそらくほとんどの教会は共通項が見いだせるはずなのです。そして、逆に言えば、それ以外の部分は、些末なことだと言えるのだろうと思います。 4)実在するものと実在しないもの サンダー・シングは罪ということについて、非常に興味深いことを書いています。 罪とは、神の意志を捨てて自分の好き勝手に生きることであり、自分の欲望を満たすためなら正しいものも捨て去り、それによって幸福になれると考えることだ、と。 しかし、人間は神の意志を無視して自分勝手に生きても、決して真の幸福に至ることはないというのです。それは、 罪とは、存在自体が欺瞞的な、破滅的な状態(実在しないもの、実体のないもの)だからです。神は創造者ですが、創造者は罪を作ったわけではありません。つまり罪というのは、創造によって存在が生み出された、実体のあるものではなく(神でないものに創造する力はないから)、創造されたものを破壊するというただの欺瞞的な状態の呼び名にすぎないのです。 それは光と闇のようなものです。光というものは、実在するものです。(光子というものが、存在します)でも闇は違います。闇は光の欠如、というような定義しかできないものです。同様に、悪というのは、神という光(愛)の欠如の状態にすぎないゆえに、それによって人間が真に幸福を得たり、満足を得たりすることはあり得ないといいます。 従って、霊的な生活というのは、もっとも地に足がついた生活ということになります。真の進歩ということについて、彼はこう書いています。 「霊的な進歩がなければ、世俗的な進歩はいんちきな偽物である。世俗的な進歩は、ほかの人に損失を与えずには遂げられないものだからである。徒競走では、ほかの人々より速く走ることによって、一人の人が勝つ。彼らの敗北が、この人の勝利となる。また、商人はほかの人々の出費で儲ける。一方、霊的な進歩は本物である。一人の人の進歩が、ほかの人々の成功を助け、またそれに依存しているからである。人のために働くことで、しばしば自分でも知らないうちに、自分自身が助けられている。」 |
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サンダー・シングの著書の訳本は、日本では金井氏と林氏とミルトス社のものが出されていますが、現在金井氏の訳は絶版となっています。また、ミルトス社の全集は、今年になって刊行がはじまったところです。 金井氏訳によるもの ・『啓示と実存―福音と印度の諸宗教』(サンダー・シング著/金井為一郎訳/東小金井基督教会) ・『サンダー・シング全集』(サンダー・シング著/金井為一郎訳/基督教文書伝道会) ・『サンダー・シングの生涯と思想』(金井為一郎著/基督教文書伝道会) ・『霊界の黙示』(サンダー・シング著/東光社刊行) 以上、日本で初めてサンダー・シングを紹介した金井氏の訳本は現在絶版となっています。 林氏訳によるもの ・『聖なる導き インド永遠の書』(サンダー・シング著/林 陽訳/徳間書店) 『神との対話』『瞑想録』『霊界物語』『天界の異象』『神への渇き』『実在の探求』『神との生活』を収録。 ・『イエス・キリスト 封印の聖書―蘇る原始の教え』(同上) 訳者によるサンダー・シングの生涯と思想がまとめられており、後ろに講演録がのっているという構成になっているので、一冊だけ読むならこれがおすすめ。 ミルトス社によるもの ・『インドの聖者 スンダル・シング』(原題:Sundar Singh A Biography/A.J.アパサミー著/河合一充・廣岡結子訳/ミルトス社) 数多くの伝記が出されている中で、サンダー・シングの友人であり、よき理解者であったアパサミー博士が出したこの一冊は決定版。しっかりとした資料と証言に基づいてサンダー・シングの言行が淡々と事実として綴られている。また、スウェーデンボルグとサンダー・シングとの関係については本書が一番面白く、興味深いです。 ・『スンダル・シング著作集1』(河合一充・廣岡結子訳/ミルトス社・2000円) 「主の足もとにて」「実在と宗教」「霊界の黙示」収録。 これ以下はミルトス社による最近の訳で、現在1が出版されています。2・3も近日出版予定。 ・『スンダル・シング著作集2』(同上) 「実在の探求」「霊的生活」「真なる生活」が収められています。 『スンダル・シング著作集3』(同上) ・「キリストと共なる生活」「豊かな生命」「十字架は天である」が収められています。 |
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パンプキンは、ちかごろ地元の教会めぐりをしています。それは自分が通える教会を見つけるためと、パパイヤ(息子)が通える教会があれば嬉しいと思ったからです。 しかし、「スウェーデンボルグ主義」という一宗派に属してしまった私には、どの教会の教えもひっかかるだけで、とても息子を通わせる気にはなれませんでした。そして、この主義があるために、ほとんどすべてのクリスチャンと心から交わることができず、息子に教会を与えてたくさんの友達を作ってやることができない現実というものが正しい状態なのだろうかと悩んでしまいました。 分裂をもたらす「教義」「正しさ」ってなんなのだろうって。 クリスチャンでない人たちとは、「愛」ということで一致を見いだすことができると思っているのですが、クリスチャン同士だと、なぜか一致することがずっと難しいのです。 まだ1歳の息子を見ていると、このように教義によって一致できない状態というのがいかに不自然かということを思わされます。幼い子供は、分析、批判ということをしません。だから誰とでも友達になれるのです。天使というのは、そういう存在ではないかと思います。 サンダー・シングは、私に、スウェーデンボルグ神学という色眼鏡を通してではなく(それが正しいとは思っていますが)、もう一度、ただの個人として、神の前に立つことを教えてくれます。おそらく、超越しなければならない教義がたくさん、私の中に垢としてたまっているのだと思います。大切なことは、もっとわずかなはずです。私は、○○主義もすべて捨てて、ただの人間として、神に祈り、道を示してもらうことが必要と思いました。ちょうど、サンダー・シングが、自分がこれまで教えられてきたヒンズー教の教えを一旦わきに置いて、「神が本当に存在するのならわたしの前に姿を現して救いの道を示してください。」と祈ったように・・・。最大の神学校は、誰かの著作でも教会の説教でもなく、祈りによる生ける神との交わりのはずだからです。誰かの受け売りではなく、私自身が神から教えられて初めて、私は「○○派のキリスト教徒」ではなく、「ただのキリスト教徒」になることができ、もっと言えば、「ただの当たり前の人間」になることができるのでしょう。 「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」 これは私の通っている教会の先生の言葉です。昔かなり乱暴な性格で家族と争いが絶えなかったパンプキンは、この言葉を心に持って、歩んできたはずなのでした。もう一度、原点に帰って、祈り、主と交わり、主の似姿に化していく生活を始めたいものだと思います。 「あなたがたの間に愛があるなら、それによって、すべての人があなたがたを私の弟子と認めるのです」 |
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