エマヌエル・スウェーデンボルグ(上級編)

前のページではわざと触れなかった部分があります。
それはスウェーデンボルグが一般の教会とは少し異な
ることを書いているため、先入観なく知ってもらうためですが、
触れなかった部分を少し補足します。

正統派のクリスチャンの方にとっては、教義の上で
異なる部分もありますので、心の準備をしてお読みください。

よろしければ目次を使ってください。

大事な前提

スウェーデンボルグの思想・補足

パンプキンの感想

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大事な前提

1.キリスト教の分裂について

ご存知のように、地上のキリスト教会は多くの派に分裂しています。それぞれ自分のところの宗教(宗派)が正しい、他派は間違っていると主張し、批判し合います。(口に出さずとも、多くの人は心の中でそう 思っているでしょう)なぜそのように多くの宗派が起こるのでしょうか。この分裂の現状を見て「だから神なんかいないのだ。 宗教などは人間が頭の中で作り上げたものにすぎない」という人もいます。神が与えたものなら、神がお一人なら、その教えもひとつであるはずだというのです。

神がいることを前提とするなら、この分裂について考えられる説明は、真理はひとつであるにもかかわらず、人間の側が不完全なため、もともとの神の(イエスの)教えにさまざまな脚色を付け加えているということです。それぞれに神の教えは残されているものの、それぞれに 人間の教えが何パーセントか、何十パーセントか混じっていると考えられます。

2.何を基準にして真理を選ぶか

世の中にはたくさんの宗教・宗派が存在しますが、自分とこの宗教だけが 正しいことを言っているといい、他がすべてニセモノと断言するのは、客観的に見て冷静なものの見方とは言えません。 人間である限り、その真理を把握する能力には限界があるからです。私が思うに、人がある宗教を選ぶというのは、 「客観的に絶対的に正しい唯一の真理を選び取る」ことではありえません。むしろ、「自分はどんな生き方をしたいのか、どんな人間になりたいのか」という生き方の選択であると思います。ですから、正統派・異端、あるいは多数派、少数派、という 評価基準で多くの人にとって価値あるとされる宗教・宗派ブランドを選ぶのではなく、あくまで自分個人にとって価値のある、 自分が求める生き方と一致したものを中身で選ぶことが大事だと私は思っています。

3、聖典としての聖書の権威について

●聖書の編集について

聖書は、キリスト教の聖典とされています。そして上にあげたさまざまな宗派の人々も、 他の宗派の間違いを指摘するのに、必ず聖書の言葉を持ち出してきます。それは聖書がキリスト教のよりどころとされて いるからです。

では、いわゆる聖書(the Bible)という本は、ひとつなのでしょうか。
実際は違います。ユダヤ教で「聖書」といえば新約聖書は含まれていませんし、プロテスタントでは「外典」として 編集の段階で聖書からはじきだされた部分(トビト記、ユディト記、マカバイ記第一、マカバイ記第二、 ソロモンの知恵の書、シラ書、バルク書など)がカトリックでは含まれています。つまりカトリックでは聖書は72巻あり、 プロテスタントでは66巻あるのです。なぜこのような違いが出てくるのでしょうか。これをもってして「だから聖書なんて、 人間が作った本に過ぎない」という人もいます。神が与えたものなら、その与えた本もひとつであるはずだからです。

しかしこれも上の宗派と同じことが言えます。聖書が神から与えられた書物であることを 前提とするなら、この違いについて考えられる説明はひとつ。聖書は 神が人間に与えたものだが、不完全な人間が編集したため、編集には人間の手が加わっている ということです。上のようにプロテスタントが外典としてはじき出した 部分は、何を根拠にして「聖書ではない」と判断したのでしょうか。あるいはカトリックは何を根拠としてそれを 「聖書である」と判断したのでしょうか。そこに人間の考えが混じることは、避けられないことです。

このように、編集に人手が加わった聖書で、何が本物かということを人間に知らせるには、 もはや神さまが現代に現れて直接人間に教えてくれるしか方法はないでしょう。
しかし実際に神さまが現れ、「この外典のこれは本物でこれは偽者である」とか、「聖書には含まれていないが、 これ以外にも私の言葉がある」とか、あるいは「これはよいことが書いてあるが、私の直接の言葉ではなく 人間の書いた手紙である」とかいうことをおっしゃったらきっと大変なことになるでしょう。 おそらく多くの人は「そんなことを言う神は偽者だ」と言うでしょう。また、そのメッセージを受け取った人がニセ預言者 と呼ばれることは間違いないと思います。それが人間というものなのではないでしょうか。

●聖書のどこを重視すべきか

また、現代の多くのクリスチャンたちは、旧約聖書の残酷な神の言動に、困惑しています。そこで 「私たちには新約が与えられている。イエスが現れてもう旧約の時代は終った」という人もいますし、「旧約は、新約の 光に照らしてこそ読まれるべき」という人もいます。しかしどちらも、旧約の神のふるまいに困惑していることは、変わり ありません。
一般のプロテスタント教会では、使徒行伝および使徒書簡が多く読まれます。イエスの十字架によって、 もはやイエスの存命時代のイエスの言葉すらも、重点を置かれなくなっている教会もあります。このように、
聖書を聖典と ひとくちに言っても、信者や教会は個人裁量で、重視すべき個所と見過ごす個所を決めているのが現状だと思います。 もし聖書が一語一句神の言葉であるなら、クリスチャンはもっと旧約を読むべきですし、ヨハネ黙示録も読むのがスジです。

スウェーデンボルグ主義者は、パウロ書簡をあまり読まないのが特徴です。しかし、使っている聖書は同じですし、旧約は とても重視します。パリサイ派のように律法的だという意味ではありません。旧約もまた、新約と同様に神の言葉であると しているのであり、旧約聖書が単なる進化論や歴史の教科書ではないように、単なるユダヤ教の経典でもなく、時代と共に 存在価値の薄れる書物ではなく、現代の私たちにも重大なメッセージをもっているシンボリズムを含んでいると考えています。(前ページ参照)
ですから、「聖書のどこを重視すべきか」という問題もまた、各宗派にそれぞれ人間の考えが入り込んでいるということを反映しているに過ぎず、どこを重視するのが絶対的に正しいということは言えないのだと思います。(聖書が例え完全な書物であったとしても、人間が不完全なため、多様な聖書解釈が生まれることは言うまでもありません。)

(聖書のバリエーションについてのくわしい説明は、
http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/bible.html をご覧ください)

4.啓示という現象はありうるか

啓示とは、神が人間に直接語りかけるという現象を指します。そしてスウェーデンボルグ の書物も、啓示によって主から示されたということになっています。
啓示という現象に対する 態度は、人さまざまです。聖書以外の教えを決して認めないという人々は、内容がなんであれこれを否定しています。また、神は生ける神として今なお働き、私達人間にさまざまな方法を通して語りかけ、教え導いていると考える人たちは、これを神からの賜物として受け入れ、耳を傾けます。また、そのどちらでもないけれど、もし危険なものだと困るので、とりあえず 広く受け入れられている聖書以外のものにはあたらず触らずという立場の人もいるでしょう。

ちなみにパンプキンは啓示を(内容によりけりですが)頭から否定せず、それがよいものであれば神からの賜物として耳を傾ける主義です。なぜなら、もしそれが本物ならば、地上の既成のどの教えよりも、不完全な人間の 考えによる教えが混じる割合が減るだろうと思うからです。
これだけ教会が分裂し、聖書の編集にも人手が加わり、聖書解釈も千差万別とあれば、神さまがおられるなら、そのまんま 人間を混乱の中に放っておかれず、誰か人を遣わして混乱を静めようとされることも、ありえないことではないと思うのです。

しかし、もし神さまが実際に人を遣わして(誰か人に現れて)本当のことを教えたとしても、はたして人々は受け入れるかどうかという問題は、考えてみる価値があると思います。 おそらく多くの人は内容を吟味もせずに反感を持ち、否定するのではないでしょうか。 その昔パリサイ人や律法学者たちも聖書の言葉を持ち出してイエスの権威を否定しましたが、権威は人ではなく 神が与えるというのは、パンプキンの個人的立場です。(もちろん、なんでもかんでもありというわけではありません。 「実によって見分けられる」だろうと思います。)

このサイトにはいわゆる「啓示」による書物や口述をいくつか紹介したつもりです。そこでは共通して語られている ことがあるのがわかります。神さまは 「いいかい、いろいろな解釈はけっこうだけど、これだけは忘れちゃいけないよ」ということを、何度でも繰り返し、いろんな人の口を通して、語りかけてくださっているのではないでしょうか。

啓示について詳しいことはヴァッスラー・ライデンの「啓示について」の章に書きましたので 興味のある方はご覧ください。

スウェーデンボルグの思想・補足

スウェーデンボルグの神学は幅広く、その著書も膨大なため、前ページはパンプキンが 最も重要と思うエッセンスだけを紹介したつもりです。そこで パンプキンが理解するところのスウェーデンボルグ神学について、少し補足を付け加えます。これはパンプキン個人にとってはどちらかというと枝葉の問題ですが、教義的には核心となるものです。

1.唯一の神はただひとり

スウェーデンボルグの神は一神教の神です。そして「唯一の神はただひとりである」ことを強調して います。これは聖書にも旧約時代から語られていることですが、パリサイ人、律法学者たちは、その聖書の言葉を もとにして「神はおひとり だけだ。それなのにイエスは自分を神と同等であるかのように語っている」「民衆を惑わす者だ」として、イエスをニセ預言者、危険人物と決め付けました。
神が唯一であるのに、なぜイエス・キリストが神なのか。それについてのスウェーデンボルグの答えは明快です。
イエス・キリストは、神ご自身であるというのです。これが、スウェーデンボルグの宗教観は普遍的でありながら、キリスト教であるゆえんのところです。

(ちなみにイエス・キリストが父なる神ご自身であるという考えは、スウェーデンボルグが初めて ではなく、325年のニケア会議以前の原始キリスト教(使徒的教会)にみられ、 また原始キリスト教の教えをよく残しているといわれるギリシャ正教には現代も受け継がれているということです。)

スウェーデンボルグによると、神は無限です。そして目に見えない存在です。ですから、有限な私達人間には、 神がなんであるか、どんな方であるのか、完全には把握することはできません。有限な存在にとって、無限な存在は理解を超えているからです。 しかし、「ことばは神であった。ことばは人となって人々の間に住まわれた」のです。人の姿をとった神すなわちイエスは、人間にとって理解が可能な存在です。当時の人々はイエスの言動を直接見聞きして、また現代人は聖書の福音書を通してイエスの人柄に触れ、神がどんな方であるのかをある程度理解でき るのです。「私を見たのは、父を見たのです」つまり、無限の神が人の姿をとって有限な人間にも把握されるような形として地上に生まれてくださったのが、イエスだということです。

神は霊ですが、人間という形をとらなければ地上に降りて、人々を救うことができません。神はいつも、人の心を通じて この世に働きかけます。神が人間を贖うには、肉体をまとい、人間の 罪の性質を背負う必要があったというのです。人の姿をしていますが、その霊は神からきたものであり、本質は 神そのものです。つまり、地上でイエスが父なる神に祈っていた のは、その肉性(人性)から内なる霊に向かって祈っていたということです。贖罪によって十字架にかかったのは 実に、神ご自身であったというのが、スウェーデンボルグの考えです。
人となって人々の間に住まわれた神のことを、聖書では「子」と表現されているということです。

これは後に紹介するスウェーデンボルグの「贖罪」の考え方にもかかわってきます。彼によると、 イエスは2番目の神ではありません。神ご自身だということです。だから今天国において、神さまがいて、イエスさまがいて、 聖霊様がいて、 それぞれ別の椅子に座り、イエスは神さまの右側の椅子に座って人々の祈りを神さまに取り次ぎ、神の命を受けて 聖霊さまが派遣され、と3人の神がいるということではなく、天界にはイエスという神おひとりがおられるということです。 (聖書で「右」は全能を表す)
無限の神(本質)が父なる神、その神が人間に把握される形に姿を持ったのがイエス、その働きが聖霊です。ちょうど人間には霊魂と、身体と、働きがありますが、 霊魂にあたるのが神、身体がイエス、働きが聖霊と、スウェーデンボルグは喩えています。

2.救い主イエスの生涯は、贖いの生涯

さて、肉をまとって(罪の性質をまとって)地上に降りたイエスは、旧約聖書がずっと予言 していた通り、人々の救い主、贖い主としてのイエスだと、スウェーデンボルグは考えています。しかし 贖いの瞬間は十字架上の死のみではなく、イエスの苦難の生涯そのものが、人々を救うための贖いの生涯 であったというのが、彼の神学で特徴的なところです。
人間は悪行を重ね、罪に罪を重ねたため、当時は地上では人間の心が非常に悪くなり、また霊界においても悪の力が 非常に強くなっていたといいます。このままでは、よい心をもって神の戒めに従おうと努力している人間でさえ、 悪の誘惑に打ち勝つことは難しくなっていたというのです。そこでイエスは、マリアから受け継いだ人間性、 人間のあらゆる罪の性質を背負って地上に生まれました。人間性から神性に向かって祈ることで あらゆる悪の誘惑とひとつひとつ戦って勝利していくことで、強力な悪の勢力を追い返し、善と悪の勢力のバランス を回復し、人間が救われる道を開いたというのです。そして十字架上での死は、イエスの生涯において唯一の 贖いの瞬間ではなく、それは最後の仕上げともいうもの、贖いの完成の瞬間だというのが、スウェーデンボルグの思想です。

3.救われるのは、悔い改めによる

スウェーデンボルグの神は愛の神ということで、罪を犯した人々を罰して地獄に投げ込む、 ということはされません。聖書にそう書かれている部分は、人間がよく生きるため、人間のレベルに合わせて 書かれたことだということです。むしろ、「罰しない」という意味での「許し」なら、神はもともと誰をも罰しない、 クリスチャンであろうとなかろうと、信仰があろうとなかろうと、その罪を悔いていようとなかろうと、神は はじめから許しておられるとスウェーデンボルグは 言います。しかし許されているからとて、罪を犯すままなら、 そのこと自体が不幸であり、地獄です。だから罪はゆるされることに意味があるのではなく、実際に 解放されてこそ意味があり、それこそが「救い」なのです。
そこで、スウェーデンボルグは「罪のゆるし」 という言葉を「罪からの解放」という意味で使っています。なぜなら、 ある人が盗みをやめられないとして、その罪が許されたからといって、まだ相変わらず盗みを続けているなら、 その救いとはなんでしょうか。

スウェーデンボルグによれば、人間の罪が許されるのは、自分の罪を実際かつ具体的に 認め、それを悔い改めてそこからの解放を祈り求めることによってです。自分でも知らないし、認めてもいない罪は、 取り除かれません。人への妬みに ついては悔い改めたけど、あの人への憎しみは、まだ悔い改めないまま罪として残っているかもしれません。 情欲については悔い改めたけど、人からの誉れを得たいという虚栄心については、そのまま残っている かもしれません。
悔い改めないまま残っている罪が、「クリスチャンなのに、こんな悪行をしている」という部分なのだと いえます。 つまり
人の救いとは一瞬にして行われるもの ではなく、生涯に渡って徐々に完成していくものだということです。
クリスチャンになって救われたのに、なにひとつ変わらないという声を聞きます。また、クリスチャンだからといって、 罪を犯さなくなるわけではないことも、私達はよく知っています。それは、主イエスへの信仰は歩みの第一歩であって、 その時点で罪のすべてから解放され、完成するわけではないからです。

主イエスを信じる者は確実に天国に向かって歩み始めていますが、罪のゆるし、つまり 罪からの解放とは、「悔い改めて福音を信じる」ところから得られるものです。
そこで、クリスチャンのなすべき大事なこととして、 スウェーデンボルグは毎日の悔い改めをあげているのです。

ここはスウェーデンボルグ神学の真髄にあたるところで、パンプキンはそのゆえにこの教派を 選択するに至りました。興味のあるところは 「個人的な証」の中の、「なぜこの宗教、宗派を選んだのか」をご覧ください。

4.天国も地獄も、人間が選んで行く

スウェーデンボルグの天国と地獄という観念も特徴的です。天国は、神さまがお情けで入れてくれたり、 地獄は神さまが怒って罰として投げ入れるところでもありません。聖書からそういったものを読み取るのは、字面だけを みているからだということです。誰でも天国に行きたいし、誰でも地獄は嫌です。そして「天国に行きたい」といえば、 神は誰をも分け隔てなく天国に入れてくれるといいます。しかし、その空気が肌に合わないと、そこは嫌だといって、 自分から自分の肌にあった、なじみのある世界へ行くようになるというのです。

それはちょうど、禁煙車両と喫煙車両のものだと、パンプキンは考えています。(喫煙が地獄的 という意味ではありません、笑)
たばこを好んで吸う人には、禁煙車両は居心地の悪い場所です。たばこが嫌いな人には、喫煙車両は煙たくてたまりません。 そして結局、お互い似た空気を好む人同士が集まって住むようになります。神への愛と隣人への愛で心が満たされて いる人は、そういうところへ行きます。争いを好み、また自分の欲望どおりに生きられることを望む人は、そういうところへ 行きます。人は死後そういった「住み分け」をし、それが天界であり、地獄であるとスウェーデンボルグは言うのです。

中国にこんな有名な話があります。長い箸を持って食事をしている。天界では、互いの口に食べ物を入れてあげるので、 誰もが満腹になれる。ところが地獄では、自分だけが食べようとし、しかし長い箸なのでうまく口に入れてあげられず、 苦しんでいる、と。地獄の苦しみとは、そんなものじゃないかと思います。自分のような人間が回りにいっぱいいたら、 果たしてそこは住み心地のいいところだろうかどうか、点検してみると、そこが天界か地獄かわかるかもしれません。(笑)

スウェーデンボルグの神学には地獄への恐怖や、罰を与える恐ろしい神といったイメージが ないのは、そういう天国・地獄観から来ているといえます。

5.行わせるのは神だが、行うのは人間

スウェーデンボルグによれば、ただ主よ、主よというものが天界に入るのではなく、神の みこころを行う者だけが入るのです。それは、先に述べた天国・地獄観によります。せっかく神さまに天国入りを 許可されても、そこの空気が肌に合わなければ、つまりその心に少しも天国が作られていなかったら、そこは 住みづらく、結局自ら出ていくことになります。繰り返しになりますが天国はお情けで入れてもらえるところでも なければ、行った善行のご褒美に入れてもらえるところでもないのです。
そこでクリスチャンは、主よ主よというだけでなく、神のみこころを行わなければなりません。しかしそれは、 天国に入れてもらうための善行を積むためではありません。神のみこころを喜んで行う心に主によって変えて いただかなければ、結局のところ天界に入れる心が作られていないということです。

クリスチャンは、地獄へ落ちる心配をする必要はまったくありません。クリスチャンでなくても 同じです。その場所がなんと呼ばれようと、「今の自分にとってもっとも肌の合う、居心地のいいところ」であることは 間違いないからです。
しかしスウェーデンボルグによれば、人はみな「天界に入れるよう、天の住人となるよう作られている」がゆえに、 真の自由と真の幸せは、やはり心に天界が作られることによって得られるのだというのです。

よい行いは、天界に入るために行うものではなく、人に見せるために行うものでもありません。 それは、自由な心から、それをしたいから、行うものでなければ、本物ではありません。よいわざを人間に行う 力を与えるのは神ですが、人間は自動ロボットのように自分の身体が動くのを待っているのではなく(笑)、自らの 意思であるかのように、努力して、神のみこころを行おうとする必要があるというのです。行おうとする人間の自由からくる 思いに神は働かれ、よいわざを行う力をお与えになるのです。

7.聖書について

さて、冒頭であげたように、聖書といってもひとつではなく、人間の手で編集され、追加・削除 されたところがあります。スウェーデンボルグは聖書について、「内意のあるものとないもの」に分類しています。内意とは、神の言葉にみられるもので、 表面的な文字通りの意義以外にも深みをもち、二重・三重にも意味がひきだせるという言葉です。
例えばイエスは「キリストの血を飲み、肉を食べなければ、あなたがたのうちに命はない」ということを言いましたが、それを聞いたユダヤ人の多くは「これはひどい言葉だ。誰が聞いていられようか」と拒絶しました。それはユダヤ人たちが、神の言葉には 「内意」があることを悟らず、本当に血を飲み、肉を食べることだと考えたからです。しかしイエスは「血」や「肉」によって文字通り のことではなく、イエスの教えや愛のことを意味したのでした。

スウェーデンボルグの聖書解釈には、例えば聖書の「水」は真理を表し、「金持ち・富む者」は真理を持つ者を表し、 「豚」は貪欲を表し、「右」は全能を表し・・・というように、首尾一貫したシンボリズムが用いられていますが、これはスウェーデンボルグが聖書は神の言葉であって、「内意」があるとしているからです。

しかしスウェーデンボルグによると、現代の聖書以外にも神の言葉が書かれた(すなわち「内意」を持つ)外典があるらしいし、聖書の中でも例えばヨブ記や使徒の書簡の文面には内意が含まれず、よって有益な内容ではあるけれども人間の手記や手紙であると明言しています。

ある意味非常にセンセーショナルなことを言っているわけです。(ただしスウェーデンボルグの神学を受け入れる人は、一般の教会と違う聖書を使っているわけではありません)これによってスウェーデンボルグをはっきり拒否 する人と受け入れる人がいるわけですが、前のページで述べたようにスウェーデンボルグは 決して聖書の言葉を軽視しているわけではなく、むしろ逆です。聖書の言葉は神の言葉として、現代の教会があまり 読みたがらない、旧約聖書の中の科学的・歴史的な事実とは矛盾する(とされる)記事、また神による多民族 の征服といった一見残酷な神と見える個所も、字面だけの意味でなく深い意味があるとして、内意を引き出しているのです。

啓示というものがあり得るかどうか、またあったとして、スウェーデンボルグが本当に 神から命じられて真理を語っているのかどうか、それぞれの方が自分の目で確かめ、その実によって判断して いただけたらと思います。

ただ、スウェーデンボルグの啓示が本物かどうかをまったく別としても、はっきり 言えるのは、もし本当に神が諸教会の分裂を憂え、人間に真の聖書解釈を教えようと思い立たれたら、誰か人間を媒体として啓示としてそれを伝えるという方法をとられるだろうし、またそういう方法をとられたとしても、多くの人間はそれを よく吟味する前にニセ預言者呼ばわりするだろうということは、大いにありうることではないかと思います。

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パンプキンの感想

●スウェーデンボルグは異端?

スウェーデンボルグと聞くと、「ああ、三位一体を否定している、異端ね」ということで片付けられてしまうことが多いです。(笑) 宗教はブランドではなく、生き方の選択ですから、多くの人に認めてもらう必要はないわけですが、それにしてもスウェーデンボルグの思想をよく知らないままに「誤解」から否定されていることが多いため、先入観だけで入口で引き返してしまうにはもったいない、非常に深く有益な思想をもっていると思いますので、紹介させていただいた次第です。

「三位一体の否定」といっても、イエスの神性は一般のキリスト教会に劣らず、むしろそれ以上に 主張しているわけですし、「内的三一性」という表現で、その三位を説明しています。実際、正統派と呼ばれる教派の教職者の 中にもこのような考え方をしておられる方がおられるのを個人的には複数知っていますので、実際正統派信者さんの中でも三位一体の理解はさまざまであり、潜在的にはスウェーデンボルグのように捉えている人も少なくないように思えます。また上で述べたように、東方教会は、スウェーデンボルグと同じ考えだそうです。「ちいろば牧師」で有名な榎本牧師は「三位一体は、よくわからん」と正直に述べています。パンプキンも正直言って、わかりません。(笑)三位一体も、内的三一性も、どちらを聞いても、その教会で生まれ育ったら、「ああそう。」と受け入れるだろうと思います。だから、パンプキンにとっては、この問題は、本質的な問題ではないのです。

むしろ、そこから派生する、「人はいかに生きるべきか?」の方が、一信者としては重要です。パンプキンは個人的には、祈り、悔い改める生活をしないと、どんどん堕落してゆき、怒りっぽくなり、自己中心度が急上昇することを、経験的に思い知っています。パンプキンは、家族に優しい人間になりたい。子どもに愛情をたっぷり注いであげられう母になりたい。自分のことでいつも愚痴たらたらの妻や嫁にはなりたくない。(それに、そういう迷宮に落ち込むと自分自身がとても苦しい。)だから、私にとっては、本当の幸せは、自分が愛の人、すなわちイエスさまのような人格に変えられていくことにあるのであり、それが私にとっての真理なのです。そういう願いをもとにすると、スウェーデンボルグが一番、自分にはマッチしていると思って選択しました。

また「スウェーデンボルグはイエスの贖罪を否定している」というのも、よく聞く誤解です。確かに十字架にかかったことによって罪が帳消しにされた、とは言いませんが、もし私たちの罪が帳消しにされたなら、クリスチャンたちはみな天使のように愛に溢れているはずです。しかし実際は、全然そうではありません。私自身もクリスチャンで信仰告白し、毎週教会に通っていても、家族と毎日罵り合っていました。クリスチャンにも、実を結んでいる人と、そうでない人がいる。その違いは、十字架の贖罪を信じているかどうか、ではないと私は現実を見て思うのです。むしろ聖書の言葉に生きようとしていかに祈り求め、悔い改め、救い主イエスに助けを求めて祈っているかではないかと私は思います。そういう意味で、私にとってイエスさまは、私たちの現実問題としてある実際の罪から救ってくださる、救い主です。

●啓示ということ

また、スウェーデンボルグの神学が啓示によるものだとされていることも、特徴的です。啓示に対する人間の態度は2つしかありえません。 ニセモノとして拒否するか、それとも本物として受け入れるか、どちらかです。人間の頭で生み出した神学なら、無視 ということもありえますが、神からのものであるというなら、それは本物か、ニセモノか、どちらかしかないからです。 それは言い換えれば、(本人が嘘をついているのでなければ)、神からのものか、悪霊からのものか、どちらかという ことになるかもしれません。

聖書には「ニセ預言者に警戒せよ」という言葉があります。それは「その実によって 見分けられる」のです。
善を行うな、悪を行え。神の律法なんて、守らなくてもよい。キリスト教徒なら、悪いことしてたって、天国に行ける。 人殺しも戦争も、ときには人類の救いのために必要だ。悔い改めるな。自分ではなく人を変えようとしなさい。そう教える宗教があれば、それこそ偽者だというのは、わりと簡単に見分けられますが(笑)、スウェーデンボルグはそうは言ってません。 あくまでも、「善を行い、悪を つつしみなさい」「悔い改めなさい」「憎しみを捨てなさい。神を愛し信頼し、隣人を愛しなさい」と教えているのです。 悪魔が、わざわざそんなことを教えに、ニセ預言者を遣わすでしょうか。・・・ クリスチャンであれば、啓示というものについては、態度をはっきりさせるべく、ひとりひとり考えてみる価値が あると思います。

また、危険とされるいわゆるカルトの特徴として、「この宗教に入っていなければ、 救われない。この宗教を信じないものは地獄へ行く。まもなくこの世の終わりが来る。」と恐怖心をあおり、 危機感を抱かせ、本人の自由意志を無視して入会を強制したり、献金を搾り取ったりし、そうしている側も 「本人の救いのためだ」と思い込んでいるというものがありますが、そういった要素もスウェーデンボルグの教えとは 相反するものです。
クリスチャンであろうとなかろうと、心に天界が作られているのであれば天国に行けるし、 作られていなければ、自分に合った世界へ行く」と言っているのです。また、神がこの地上を滅ぼされる、神がキリスト教の信仰をもたないものを 地獄へ投げ込まれる、という恐怖とも無縁です。イスラム教徒でも救われる。信仰を知らずに亡くなった 幼子たちも天界にいる。キリスト教を知らないアフリカの奥地の民族も、天界にいる。そのことを知って いたら、これまでの多くの宗教戦争も、各民族の文化を滅ぼすような改宗の強制も、流血も、 起こらなかったのではないでしょうか。
何よりも本人の自由意志、自由の中から選択することの大切さを強調して いるのが、スウェーデンボルグ神学の特徴なのです。

先日、世界の多くの人の平和を願う声に逆らって、アメリカの対イラクへの 戦争がはじまってしまいました。ブッシュ大統領が言うように、この戦争は本当に「正義の戦争」、神が支える 「聖戦」なのでしょうか。キリスト教は、戦争を肯定する宗教でしょうか。
今の自由を享受できるのは、過去の戦争のおかげとし、また、キリスト教が世界に広まったのは、過去の クリスチャンによる異教徒への侵略のおかげだとして、戦争もまた(いいことではないにしろ)神の摂理の中に あるものだとする考え方があることも、私は知っています。現代の多くのキリスト教は、聖書にある「聖戦」 の記述、人殺しを命じる神について、どのような解釈を持っているでしょうか。神なら、人殺しも許される のでしょうか。では神に命じられたという人間には。

スウェーデンボルグは、「戦争は神のみこころではなく、人間が起こすもの」と はっきり述べています。旧約聖書に出てくるいくつかの「聖戦」の記述も、スウェーデンボルグの聖書解釈では、 シンボリズムなのであって、愛なる神が人殺しを命じたことは過去も現在も決してないのです。 私にはこの教えが非常にしっくりきます。
実によって見分けよと、言われますが、私はこの教えが神から与えられたものだと信ずるひとりなのです。

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