ヴァッスーラ・ライデン(スイス)

長いので目次をご利用ください

ヴァッスーラ・ライデン(1942〜 )

メッセージの語ること

啓示について

参考図書

パンプキンの感想

SPIRITUALISM HOME

ヴァッスーラ・ライデン(1942〜  )

・プロフィール

1942年1月、エジプトのカイロ郊外でギリシャ人の両親のもとに生まれえる。ギリシャ正教会のメンバーとなってはいたが、宗教には関心が薄く、30年間というもの、結婚式や葬式以外には教会に足を運んだことがなかった。

24歳のとき国連職員の外交官(結婚当時はその卵)と結婚し、国から国へと移り住む生活をする。ヴァッスーラは上流階層の生活にどっぷり浸り、成功をおさめていた。ギリシャ語の他に英語、フランス語、スウェーデン語、アラビア語その他数カ国語を話し、才能ある画家でもあり、テニスのチャンピオンでもあり、ファッションモデルの仕事もした。ふたりの息子にも恵まれ、欲しいものは何でも手に入り、幸福だと感じていた。しかし、彼女の生活には神が欠けていたのである。

1985年11月、43歳のとき、人生の転機が訪れる。買い物リストを書いているとき、突然手に力が加わって、第三者に字を書かせられるようにして霊的メッセージを書き始める。それは普段の彼女の筆跡とは全然違うものであった。さらにイエスの声が、内面的な声として聞こえ、「これまであなたは自分のためにしか生きてきませんでした。しかしこれからは私のために働くようになるでしょう」と語った。

以来、彼女は神からの導きを受け、それまでの生活を改めて信仰に立ち返った。毎日書き留めるメッセージは最初の三年間は公にしなかったが、その後イエスに命じられて出版物として公にすることになる。啓示に基づくこの対話記録は『True Life in God』と題されて英語で出版され、現在31カ国語訳で刊行中。

現在は夫の配置換えによりスイスに住み、主婦として、母親としての努めを果たすかたわら、各地で講演に招かれ、時に6000人〜7000人もの聴衆の前で講演を行っている。1997年には2度目の来日も果たし、東京、大阪、札幌での集いに招かれている。

・メッセージについて

ヴァッスーラの書くメッセージは英語で、ヴァッスーラ自身の手を用いて書かれているが、抵抗しようとしても止まらないという。しかしこれは自動手記のようなものとは違い、聞こえも理解もできないことをロボットのように書かされているのではなく、内面的な声を聞きながらそれを同時に手で書き取るという形態をとっているという。彼女自身、書いている内容を理解し、心に留めており、喜びを感じているので、抑圧された感じはどこにもないと証言している。

ヴァッスーラは宗教的な人間でなかったため、当時神学や聖書についての知識が何もなかったが、メッセージの内容は聖なるものごとにたいする深い知識を表しており、祭司の何人かが内容を読むにつれ、「ここに現れている知識の源はヴァッスーラ本人ではありえない」と結論づけている。

メッセージを書いているときとヴァッスーラの普段の筆跡には明らかな違いがあり、ある司祭は筆跡学者の中でも最も有名で公的に認可された一人であるJ.A.ムニエ氏(筆跡学顧問、SGF・GGOF・パリ控訴院顧問団付き筆跡専門家)に筆跡分析を委託している。その結果の詳細は1巻の冒頭に記されており、ここでは詳しく述べないが、イエスのメッセージの字と彼女自身の筆跡の表す人格は明らかな違いがあり、ヴァッスーラ自身も健全な精神の持ち主であって誇張のない素朴な真剣さがあり、誠実そのものであるなどの分析が出ている。

しかしヴァッスーラの啓示が本物であるかどうかを判断するのに必要なのは、高名な筆跡学者のお墨付きでもなければ教会権威筋の公認でもない。「木はその実によって見分けられる」のである。ヴァッスーラの豊かな霊的対話は人々の心を揺さぶり続け、彼女のメッセージに触れた多くの人々が、自分の生き方を変えるほどの影響を受けたと語り、回心し、神のもとに立ち返っている。聖書が語っている通り、「サタンがサタンを追い出して仲間割れしていたのなら、その国は立ちゆかない」のである。

TOPへ戻る

メッセージの語ること

ヴァッスーラの書き留めるメッセージ集には、現代に生きる私たちへのイエスの直接の語りかけが生き生きと表現されています。その内容には、これまでの啓示と共通するものもあれば、ヴァッスーラ特有のものもあります。いくつかのポイントをまとめてみます。

1)教会の一致

・一致のためのキーワード

ヴァッスーラの啓示の特徴ともなっているメインテーマが、「私は各教会を一致させるために来た」というメッセージです。周知のように、現在教会はいくつもの派に分裂し、仲違いしている状態が続いています。それは「互いに愛し合いなさい」という神の命令とは真っ向から対立する、腐敗して力を失った教会の姿であり、そのため多くの教会は愛を放つ場所ではなく、議論ばかりの冷たい場所となりつつあります。宗教という、人間の自我の根本に関わる事柄に対して、人は自分を正しいとして保身をはかり、他を攻撃し、見下そうとする性(さが)があるようです。

これに対してイエスは「教会は神のからだである」として、教会同士の分裂や争いは、そのからだを傷つけ、不具にすることであると語り、互いに毒矢を放っている現状を心底悲しまれています。そして教会一致のための重要なキーワードを与えています。それは「みなが屈み、折れること…自分の利益ではなく神の意思がなんであるかを祈り求め、悔い改め、自己中心の意向を捨て去ること」…ひとことで言えば、「互いに愛し合うこと」です。

「一致を求めるなら、あなたがた全員が曲がらなければならない」

「教会の中になぜ不調和があるか知っているか?夜導く灯火を持たないで歩いていたからだ。光である私を探し求めなさい。そうするならあなた方を導く。偽善と頑なさを捨て去り、柔和、謙遜であるように。心を開いて私のいのちの雫に満たされなさい。」

「この者たち(=教会たち)は私のやり方を忘れてしまった。私が謙遜、柔和で愛に満ちていることを。あなたに求めるのは愛だけである。私があなたを愛するように、互いに愛し合いなさい。どうして私の教会の中で闘うのか?…このように毒をもった宣言文を配布するか?…私の目は互いに非難し合うのを見飽きた、愛と平和を与え、人を裁くようにと教えたことはないのに。…私の光を受けていながら兄弟を憎む者はまだ闇の中にいる、とは言わなかったか?『祭壇に捧げものを運ぶとき兄弟の恨みを思い出したなら、すぐそこに捧げものを置いて、兄弟を探しにゆき、まず和睦してから澄んだ心で戻り、あなたの捧げものを献上しなさい。』」

「私が彼らを愛するように互いに愛し合いなさいという我が命令に彼らが従い、そして謙遜を知っていたなら今日私のからだは調和のうちに支配していただろう。彼らが…身を低くして互いの足を洗い合ったことがあるだろうか?屈みなさい!一つになれるように屈みなさい!…愛があなたがたを一つにする。」

「いつでも、どの教会であっても私のもとに来ることができる、他の人々のように区別してしまわないように。それらは皆私に属している。私は唯一の神であって一つのからだを持っている。」

・異端に対して

パンプキンが特に印象に残ったのは、エホバの証人に関わる部分です。(一般にキリスト教では、イエスを神と認めないエホバの証人を異端だとしています)ヴァッスーラはスイスで、エホバの証人の婦人たちの訪問を受けます。彼女たちは断固とした意志をもってカトリックを攻撃しました。再びエホバの証人の訪問日が来て気が重くなったヴァッスーラは「この婦人たちに何て言えばいいのでしょう?」と尋ね、以下の対話が続きます。

(イエス)「この者たちを愛しなさい。私が頼んだようにして、彼女たちを大切にしなさい。皆私の子どもたちです。」

(ヴァッスーラ)「けれど…彼女たちは世界中で自分たちだけが正しい宗教で、他のすべては100%間違いだと言いたげに見えるのです。」

(イエス)「愛する者よ、この婦人たちを愛しなさい」

私たちは、自分のところの宗教(教派)が正しいと思うと、それとは違うものを攻撃したり、あれはどこが間違っているなどと言いがちです(口に出しても出さなくても)。そしてそれによって自分は正しいことをした、神の味方をしたと思ってしまいます。ところがこの場面でイエスは、エホバの証人は正しいとも間違っているとも一言も言わずに、ただ「愛しなさい」と繰り返し語っているのです。

私たちは歴史上、いくつかの宗派に「異端」とレッテルを貼って攻撃し、口をきわめて間違いを指摘し、それによって自分たちは聖書の言葉を擁護しているかのような錯覚に陥ってきました。しかし神はそんなことを「よくやった」と誉めてはくれないのです。神はいつも、「その者たちを愛したか?足を洗い合ったか?」と問いかけてくるのです。これは、信仰者の多くが忘れていることであり、常に私たちが心に留めておかねばならないことでしょう。誰もが皆神のこどもたちであり、神はどの子どもであれ、他の子どもに非難され、いじめられるのを望みたまわないのです。

しかし、聖職者の多くは、それでは多くの者たちが異端に惑わされてしまうと心配します。それについてもこのような印象深いメッセージがあります。

「あなたを迫害する者たちを祝福し、弾圧する者たちのために祈り、悪を愛でお返ししなさい。…誠実さが悪に対して勝利すると皆に伝えなさい。へりくだりが悪魔を無力にし、愛はサタンの化けの皮をはがす。」

2)貧しい者、無である者、幼子を神は喜ばれる

ヴァッスーラのメッセージの中で特に強調されているのが、私たち信者がみな「幼子のようでありなさい」ということです。これはこれまでの啓示にも共通している内容ではありますが、イエスの直接の語りかけはとても印象深いです。

ヴァッスーラはイエスと出会うまではまったく俗世間に浸って暮らし、神学や宗教についてもほとんど何も知らない素人でした。しかしヴァッスーラに語りかけたイエスは、彼女を選んだ理由として「あなたの無(または、みじめさ)が私を喜ばせる」と繰り返し語っています。

伝統的な宗教組織の中では、今なお、神が語りかけ、お近づきになるのは、身も心も神に捧げきった、聖職者や修道者たちのみであり、心が清くない者、あるいは宗教的でない者には、神は近づかれないという固定観念があるようです。

しかし2000年の昔、イエスが近づかれたのは特に取税人、売春婦、罪人たちであったことが思い起こされます。律法をくまなく守り、清らかな生活を送っていると自認していた律法学者、パリサイ人たちは、逆にイエスを受け入れることができなかったのです。

神は全能であるため、ある人間を用いてご自分を顕わされる時には、その人間の限られた才能や徳などを必要としないのです。その人間がみじめで何もない白紙の者であればあるほど、その人はすべてを神から受けようとして神により頼み、すっかり自分を明け渡すので、神は思いのままに絵を描くことができるからです。神はどんな石ころをも素晴らしい器と変えることがおできになり、人間の目から見て無価値であればあるほど、それを美しいものに作り替えた神の愛と栄光が現れるからであると、メッセージは語っています。

「みじめさは私をひきつける。…なぜなら、形造るのを許してくれるからです。」

「我が教会にたいする基本的な知識をなんら持たないため、白紙のカンバスのように、主である私が私だけのもので埋め尽くすことが自由にできた。書かれたものが全て私の口から出ていることが明らかとなるために、すべてのわざは私によってなされる」

「知恵は私から来ると理解しなさい。…無のままでいなさい。そして私にあなたの欠けているすべてとならせなさい。…私を運ぶ者となりなさい。あなたを通して私は自身を顕わす。」

3)愛の神、すぐそばにいる神

これまでの時代にもいわゆる「啓示」というものがありましたが、どの時代の啓示も、神が愛であること、生きて今この瞬間も働いておられることを共通して教えています。言い換えれば、神を忘れた人々に、神がおられ、私たちを愛しておられることを思い起こさせるために、神は時代ごとに啓示を通して、繰り返し同じメッセージを語り続けているとも言えます。

人間には聖書その他宗教に応じて経典が与えられましたが、それだけでは正しく歩けない人間たちのために、神は今日も、語り続けているというのです。

聖書以外の啓示を全く認めない人々、神は清らかな聖職者にしか近寄らないと信じている人々など、人間には神に対するいろいろな思いこみがありますが、ヴァッスーラに現れた神はそのどちらをも否定しています。悪にやられて倒れている人々に、手を差し伸べない神があろうか?心を病む人々こそ、神を最も必要としている人々ではないか?…そうしたメッセージからは、愛の神のイメージが改めて具体的に浮かび上がってきます。

ヴァッスーラ自身が、そもそも敬虔でもない、世俗的な生活をにどっぷり遣っていた人間でした。ヴァッスーラを選ぶことで、神はどんな人間にも近づき、今なお一人一人の心の門を叩き続けている愛の姿を示されたのです。神が私たち人間に無関心なのではなく、私たちが神を呼ぶことを忘れているというのです。

「すぐそばにいると、子どもたちが気づいてくれさえしたら、私は現存し、すぐそばにいる。どこにいても、どんな時にも、このことに気づいたなら、もっと転ばないであろう。罪も犯さないであろう。伝えなさい、親密になってほしいと」

「私は霊的な霊魂や司祭、修道者をほかの子供たち同様に愛している、罪人や私を迫害する者たちを含めて皆を愛しているのです。私は彼らが何であるか、その生涯にどれだけ知識を得たかと関係なく、皆に近づく。…私は自ら選んで私の花嫁となった人々だけでなく、私を知らない人々のもとにも来て彼らを選ぶ、どの戸口もたずねては戸を叩く。私は戸を叩き、聞こえるのを願いながら待っている。すべての霊魂が私を受け入れ、喜び迎えてくれるのを首を長くして待っている。あなた方皆を愛しているのです。」

「私を探し求める者は本当に私を見いだす。叩きなさい。そうすれば本当に戸を開ける。さあ、私の現存を思い出させよう」

「どの霊魂もみな、怖がらずに近づいてくるように。私が両手を開いてこの子どもたちを受け入れることを知らせなさい。愛する父なるがゆえ、いかに石をも我が熱心な弟子にすることができるかを皆が知るように。私がいかに霊魂を解放し、真の自由を与えるかを知るように。」

「私が十分そばにいないと、あなたは間違って信じてしまうが、本当はこういったときこそ一番近くにいるのです。あなたは決して一人っきりではない、決して!」

・メッセージは自分宛てのものとして読むこと

メッセージには、ヴァッスーラへの神の愛の言葉がいたるところにちりばめられており、まるで恋文のようです。そして読んでいて、ヴァッスーラだけがどうしてこんなに愛されているのか、という思いが湧かないこともありません。しかしもちろん、イエスはヴァッスーラをひいきしているわけではありません。ヴァッスーラへの熱烈な愛の言葉は、そのまますべての人に向けられているのです。ヴァッスーラ自身も、「このメッセージの『ヴァッスーラ』という名前は、読者がそのまま自分の名前に置き換えて読んで下さい、と書いています。

「欠点と罪しかないとしても、私にくれるように。そうしたらそれらを清める。彼らの重荷を取り除き、許しを与える。非難はしない、愛するだけです。倒れてしまい、私のもとに赦しを求めてくる人たち皆を愛し、その愛はさらに一層深まる。たとえ何百万回倒れようとも決して退けない。私は赦そうとそこにいて、彼らの邪悪さを私の血潮で洗い清めよう。彼らを赦すことに決して疲れてしまわない。愛と慈悲の神だからです。私は弱い者に対する憐れみに満ちている。…非難の口調やきつい言葉はどのようなものであっても私からではないと知るように、私は愛、愛、愛なのです。私の心は愛の深淵。

極悪人であってもあなた方を愛している。たとえ私を軽蔑していようとも、愛していると私は言う、私は憐れみに満ちた神であって、いつもあなた方を迎え入れ、心の中に住まわせる用意がある。娘よ、多くの人が目覚めないまま、ゆっくりと罪の闇底に深く沈んでゆくのを見ているのは何と辛いか。その悪行が霊魂に及ぼす影響を知りさえするなら!」

4)祈り、成長すること

神はヴァッスーラを愛していると語りながらも、彼女をそのままの汚い心の姿でよいとは言われませんでした。特に神からの賜物をもらっている彼女には、人からの誉れを得ようとする虚栄心に注意するようにと、語っています。

「あなたは成長しなければならない。霊において、愛において、身を低くして。謙虚において、誠実さにおいて、あらゆる徳をあなたのうちにはぐくみなさい。その一方、虚栄にたいして、よこしまな心と、私の目から見て忌むべき、恥ずべきあらゆる習慣に対しては無となるように。完全な者となってほしい」

「悪が自分の虚栄心によって霊魂を養い、破滅に陥れようとするが、それに用心し続けるよう。…自分に対して謙虚となり、正直であること。」

しかしヴァッスーラは長いこと俗世間に暮らしていたため、清い生活を送りたいとの望みを持っていても、同時に逃げ出そうという思いも働きます。神は彼女に、成長の秘訣は祈りであると語ります。

神は清らかさ、また愛の源泉であるがゆえに、どんな人間でもそこから汲み出すならば、その豊かな資質を身につけることができるというのです。サンダー・シングやアンドリュー・マーレーその他の霊的な指導者たちと同様、ヴァッスーラに語った神も、祈りというものを、豊かな源泉から愛や清らかさなどの資質を汲み出す手段と定義づけているのです。

「私の中にいて、清らかさに到達するように努力しなさい。私の与える清らかさから汲み上げなさい。汲み上げて、吸い上げ、吸収しなさい。私は無限の富、どの霊魂も私から引き出すことができる」

「私は清さ、熱愛、そして富の深淵。来て私のうちに心を浸し、そこから吸収しなさい。来て私から吸い上げなさい。…私の生ける泉から飲みなさい」

そのため、他の多くの啓示のように、ここでも祈りの大切さが何度も強調されています。

「弱くなって罠に落ちそうになるたびに、かけつけてあなたを救いあげる。…祈りの中で、私を呼びなさい。もっと多く祈るように。」

「もっとしばしば、ひとりになりなさい。たとえ短い時間であっても、私のもとを訪ねなさい。…来て、何でも持っているものを捧げなさい」

「さあ、来なさい、訪ねなさい。来て私から飲むように。…一日一時間、救い主のために時間を割いてもよいではないか?」

「しばしば悔い改め、よく祈りなさい」

TOPへ戻る

啓示について

ヴァッスーラの身に起きた、神が人間に直接語りかけるという現象は「啓示」と呼ばれ、啓示を受ける人間は、言葉を預かる者という意味で預言者と呼ばれます。啓示はいつの時代にも様々な形で与えられ、記録が残されていますが、これには無神論者のみならず信仰者であっても否定的な態度を示す人が少なくありません。それは「偽物」に対する警戒のあまりです。そこでヴァッスーラのメッセージに含まれる、啓示に関するいくつかのポイントをまとめてみます。

1)神は今なお生きて働かれるがゆえに、「しるし」(啓示)はいつの世にも与えられる

信仰者であって、かつ啓示そのものをすべて否定する人たちは、、「聖書だけで十分だ」としているからです。聖書以外のものすべてが偽物であるかのような疑わしい目を向けることもあります。しかし現代の世の中をざっと見回しても、聖書が与えられていながら、いっこうによくなっていないのが現状です。それは多くの人々によって神がすでに色あせた存在になっており、聖書もそのようなものとなっているからではないでしょうか。

すでに与えてあるものを人々が見向きもせず、滅んでいくのを、神は黙って見過ごしにするでしょうか。…今現在も在り続け、愛し続ける神は、人々を救おうと、語り続けているとメッセージは語っています。

「私のしるし(啓示など)は決して終わることがない。私の現存を世の人々に感じさせ、しるしを通して私自身を示し続ける。…信じなさい。愛があなた方を忘れてはいないことがすべての人に見えるようにと、私のしるしは与えられている。愛は退いてしまってはいない。…愛はあなた方のさ中にあり、決して離れ去ってはいない。」

「被造物が目の前で今にも敵の罠に落ちそうになっているのを見るとき、急いで助けたいと思うかわりにただ座って落ちるのを眺めているだろうか?安息日に水腫の人を助けたのを覚えているか?…『あなたの時代に、今日の摂理によるわざによって、私たちの被造物を転落から救うことは私の法に反するか?』ヴァッスーラ、私はイエスであり、イエスとは救い主を意味する」

「このような仕方によっても私は働いているのです。時折り、すでに与えてあるすべての教えを生き生きとさせようと、私は訪れる。」

「もっと懐疑的でなくなるように。もし聖霊を信じているなら、どうして聖霊を迫害するのか?どうして私に黙っていてもらいたいのか?死んだ神を望むのか?」

2)権威は人ではなく、神が与える

カトリック司祭たちの多くが、このメッセージを読みもしないうちに拒絶したそうです。それは彼女がギリシャ正教会員であってカトリックの仲間ではないこと、修道女ではないこと、その他彼女の権威を証明するものがないことでした。しかしイエスはこう語っています。

「『神は修道服をまとった敬虔な霊魂たちにしか訪れない』という理論は間違っている。あなた方は大きな誤りを犯している!私は敬虔な霊魂に近づくだけではない。差別はしない。それをどうして、分け隔てする神だと言うのか?…私は我が教会の外にいる多くの人々を訪れている。…改心させて私に熱心に従わせ、使徒とし、聖人にした。それでいて教会の多くの権威ある人々はこうした私のわざを見落とし、無視する」

「権威も聖性も私にはどちらも必要ないことを世に示すためにあなたを選んだ。私はひとりのつまらない子供を、無力で罪深く、何ら権威がなく、権力ある者を誰も知らない者を選んだ、それはこの弱い道具を通して、あなた方皆に抱いている私の平和と愛を、恵みによって、世に示すためだった。…私が自分自身で充足していることをあなたはよく知っていよう。私は権威ある人を選ばなかった。私の権威はそれ自体で充足しているからです。…権威はすべて私が与える。知恵は私から来ると理解しなさい。」

「私のすべてのわざはいつも知者ではなく単なる子どもたちに与えられてきた。私のわざは知者の目には正統でないように映る、しかしそれはこの者たちが自分たちと私とを比較するからです。…パリサイ人を覚えているか?この者たちは私がモーセの法に反することを教えていると非難した。今日でもどれだけ変わったというのか?」

TOPへ戻る

参考図書

ヴァッスーラ・ライデンのメッセージ集『TRUE LIFE IN GOD』の邦訳は現在天使館から発行され、5巻が出ています。パンプキンが読んだのは1、2巻。できれば1巻から順に読むのがおすすめです。

『神のうちの真(まこと)のいのち』(原題:TRUE LIFE IN GOD)/ヴァッスーラ・ライデン(Vassula Ryden)著/天使館/各2477円くらい)

〒102-0073  東京都千代田区九段北3−2−11 九段コーポラス705

電話・FAX:03-3239-9963

振替:00120-1-729788

TOPへ戻る

パンプキンの感想

パンプキンは、基本的に「啓示」と呼ばれるものに関心があります。それは、啓示とは神が人間に直接語るとされるものだからで、もしそれが本物ならば、人手を介さず、人間のいろんな脚色や解釈によってねじ曲げられていない、純粋な神の意思というものが学べると思うからなのです。もちろん、中には眉唾物というものもあるのでしょう。私にはその詳しい見分け方はわかりません。ただ、読んでいて、心がとても明るくなり、満たされて、これまでの生活を改めて神に立ち返り、より祈ろうとする意思が沸いてくるようなものなら、偽物ってことはないんじゃないかという気がしています。

ヴァッスーラに語りかける神は、「あなたを愛している」の連続で、そんなに熱烈な愛情表現を受け慣れていない典型的な日本人の私には、ちょっと戸惑いすら感じるのですけれども(笑)、神様は、天の高いところにいて、人間が苦しもうが何してようが我関せずでそっぽを向いている存在じゃない、実はそっぽを向いているのは私たちの方で、「あ〜、そんなことしたら、ますます自分を不幸にするのに」とはらはらしながら手を差し伸べて見守っている、過保護なほどに愛情深いお母さんのような存在なのだというイメージが、沸いてきます。そんな母親に対して、「うるせ〜な、何しようがあたいの勝手でしょ」と言ってる不良少年少女が、実は私たちなのかな、という感じ。(笑)

もちろん、啓示を追い続け、読んでいるだけでは、なんの成長もありません。どの啓示も共通して言っている、大事なことを実行してこそ、その恵みにあずかれるのです。

「もっとひとりになりなさい。たとえ短い時間であっても、私のもとを訪ねなさい」

子育てをしていると、ひとりになる時間を作るのは大変で、ついひとりになると祈り以外の好きなことに時間を使いたいと思ってしまう私なのだけど、実行していきたいなと思うことでした。

TOPへ戻る